この連載では、第2回において、夏目鏡子『漱石の思ひ出』に付された「漱石年譜」の元になったと思われるタイプ打ちの「漱石先生年譜」全文を掲載し、第3回においては、漱石幼少時をさぐった3段階にわたる文書(1)(2)(3)ののうち(3)の全文を掲載した。3点は以下のようであった。
(1)「岩波特製」200字詰原稿用紙22枚からなる「水谷氏口述の筆記 九、二十、 於小石川宅」なる文書。これは文字通り、水谷氏の口述を直に聞きながら速筆したと思われる読みにくいもの。最後の方の1枚にだけ店員である「植村」の印があり、それを入れた封筒には「重要」と朱書されている、この方面の最初期の貴重な資料といえる。実際に誰がこれを聞き取り、書き取ったのかは明白でない。
(2)上の(1)にその他、狩野享吉ら旧友の思ひ出を多少追加して、同形の原稿用紙19枚ほどに読みやすくまとめた手書き文書。清書と言えるほどではなく、かなりの追加削除が存在する。○印で40の段落に分けられている。
(3)上の(2)の追加削除に従いながら、忠実にタイプ打ちしたもの。1行38字、13行。全9枚。●印で(2)と同じ40の段落に分けられている。
以下においては、この(3)と(2)の間で注目される違い、すなわち整然とタイプ打ちされた(3)の前の姿を40の段落に従って示しておきたい。
まず 3/40 の半分を占める以下の部分は、原稿用紙マス外への追加記述である。
その八百屋が新宿へ夜店を出し、先生を籠に入れて大道に置くを佐々木吉蔵が見て可哀想に思ひ先生の姉に告げて遂に實家に引取る。一説に先生の姉自身が大道に籠に入れてゐる先生を見たとあれど夏目の如き大家のお嬢さんが夜外出する筈なし。確かにこれは吉藏が見てきて姉に告げたるものなり。
その前の、「佐々木吉蔵の世話にて」も追加である。
4/40 における「姉にお咲といへる早稲田町の建具商へ嫁せるものあり。」は追加である。
5/40「無教育にして誠に下等なる者の如し。」は原稿で元々は「無教育なり」となっていたのが、かく書き増された。
さらに、「御維新時代の」「友達八九人にて」「思はしむる風采」は、マス外に書き足されたものである。
6/40「先生の幼時と」はマス外へ追加。
9/40(2)では冒頭の「先生の生家の零落」がそっくり削除。現行冒頭の「夏目の家は舊高田の名主なりしが」はその後の追加。
「先生は貧困に育つ。」「當時夏目は牛込馬場下の坂下右の露路門内にあり(盬原の家に非ず)井戸側に小さき倉あり。尚姓を有するは近隣に夏目家のみ」は、その後の追加。
17/40 とその次の段落段落の間に
○夏目先生の育つた時代は既に家運連絡し、困難にして育つ
があったが、朱線でそっくり削除されている。
19/40「先生の母は甞つて御殿に奉公せし事ありとの説あれど身分卑しき女郎屋の娘が御殿に上れる譯なし旗本の邸位へは奉公に上れる事もあらんも水谷氏は奉公云々に就きては少しも是を知らず」は欄外への追加記述である。
19/40と20/40の間で、(2)では、
○和三郎氏は盬原のことを知る筈なし。
○和三郎氏は可もなく非もなゐといふ人物也。
が、前者は、朱線で、後者は読み取れないほどギザギザに黒インキで消されている。
20/40の次の1行の段落が削除。
○和三郎氏結婚す、山口大蔵といふ頭領の三
22/40「和三郎氏の先妻」の後の「離別後」は、「年齢僅に」を消して追加されたもの。
(2)23/40の最後の部分、青鉛筆で書き直される前は、以下のようになっていた。
夏目先生は離別を少しも知らず、婚家にて病〈気で〉死せるものとのみ思へり。然れども離別たることは事實なりと水谷氏力説す。
24/40「今回年譜作製の必要上」は追加。
33/40の以下は、欄外への追加書き込みである
「先生の奥様の話によれば、他處から電話がかゝると大聲で何處からかゝつたといふ。
餘り困つて中村是公氏に頼み日光、館林方面へ旅行に連出して貰ひし事もありといふ。」
以上、(1)を整理して(2)を作成中にもいろいろな追加情報が入っており、(3)の作成中の店員たちの努力がわかる。