連載第1回において、夏目鏡子述 松岡譲筆録『漱石の思ひ出』に付された「附 漱石年譜」には、前バージョンとも言えるタイプ打ちの「漱石先生年譜」があり、さらに漱石の少年時代を直接知る人物からの手書き口述筆記、等さまざまな資料が残っていると述べた。まずは「漱石先生年譜」である。
和装袋とじ、200 x 270 ミリ、凝った字体で「漱石先生年譜」の題簽がはられている。本体だけで、全16丁。「附 漱石年譜」12ページの簡潔な記述とは対照的で、未記載、日にちの空欄等あるが、ひじょうにくわしく個性的な記述となっている。漱石全集の編集に関わり、日記や書簡の内容にもよく通じた岩波の店員たちが一体となってまとめたものだと思われる。長いが省略なしに以下に示したい。
漱石先生年譜
慶応三年
一月五日東京市牛込區喜久井町一番地に生れる。四男、父小兵衛(直克)母千枝、生後間もなく四谷に(元夏目家に勤めてゐた下女の家に)里子に出される。姉が可愛想だといふので連れて歸へる。
慶応四年明治元年
十一月新宿の鹽原昌之助方に養子にやられる。
仝 二年
仝 三年
仝 四年
鹽原昌之助淺草區諏訪町に越す。種痘が因で疱瘡にかゝる。
仝 五年
戸籍改正の折昌之助長男として戸籍簿に記入される。
仝 六年
仝 七年
四月昌之助夫婦不和妻やす金之助を連れて媒人の直克方に來る。やす金之助を連れて別居。
仝 八年
五月第一大學區東京府管内第五中學區淺草壽町第八番小學(戸田學校)下等小學第八級第七級卒業。
十一月同第六級第五級卒業
仝 九年
五月同第四級卒業。十月第三中學區市谷柳町第四番小學(市谷小學)第三級卒業。
仝 十年
五月同第二級卒業、十二月同第一級卒業、
仝十一年
四月同上等小學第八級卒業。十二月第四中學區第二番小學公立小學錦華學校小學尋常科二級後期卒業。
仝十二年
一槁中學にゐる。(注: 一槁に?マーク)
仝十三年
仝十四年
七月二松學舎第三級第一課卒業、十一月第二級第三課卒業、母千枝逝く。
仝十五年
仝十六年
成立學舎に入る。
仝十七年
九月東京大學豫備門入學、神田猿楽町の下宿屋に中村(當時柴野)是公と同宿してゐる。
仝十八年
仝十九年
四月東京大學豫備門改稱第一高等中學校となる、中村是公と一緒に本所の江東義塾の教師となり月給五圓づつを貰つて(午後二時間づつ)其所の寄宿舎から高等中學へ通學する。是が約一ケ年續いて喜久井町の自宅に帰る。
仝二十年
建築科に這入らうとして友人米山保三郎から勸められて文學科に變更する。長兄大助次兄榮之助次々に逝く。
仝廿一年
一月二十八日復籍手續終了。七月第一高等中學校豫科卒業。此時分正岡子規と知合になる。
仝廿二年
五月二十五日正岡子規の『七草集』の巻後に批評をかいて漱石と署名する。七月二十三日季兄と興津に行く、八月二日歸京。八月七日同行五人で房總地方を旅行し八月三十日歸京。漢文でかいた房總紀行『木屑録』九月九日に出來あがる。正岡子規巻後に批評をかく。
仝廿三年
一月正岡子規と手紙で文章論をする。三月四日改姓届出。七月第一高等中學校本科卒業。八月箱根に遊ぶ。九月東京帝國大學英文科に入學。文部省の貸費生となる。
仝廿四年
六月三十日團十郎を歌舞伎座に見る。七月廿三日『故人五百題』を讀んで俳句を作る。七月二十 日嫂 逝く。八月三日子規と手紙で鷗外の作品を論じる。九月子規を大宮氷川公園萬松樓に訪ねる。十一月子規と手紙で氣節論をする。十二月八日『方丈記』英譯脱稿。東京専門學校の教師をしてゐる。
仝廿五年
徴兵の都合で四月五日分家届を出し四月八日北海道廳後志國岩内郡上町十七番地に寄留する。七月藤代禎輔立花鋭三郎松本文三郎大島義脩等と「哲学雑誌」の編纂員となる。七月子規と一緒に京都大阪を經て、子規は松山へ、先生は岡山へ行く。岡山内山下百三十八番邸片岡方(次兄の義弟の下宿)に滞在。七月二十三日岡山大洪水、二十五日より三十一日まで岡山光藤氏に避難。八月松山市湊(注: 異体字手書き)町の正岡子規を訪ねる。木戸屋にとまる。十月の「哲學雑誌」に『ウオルト・ホイトマンの詩について』をかゝげる。
仝廿六年
一月文學談話會にて『英國詩人の天地山川に對する勸念』を講演する。そのノートを三月四月五月六月の「哲學雑誌」に連載する。七月文科大學卒業。大學院に入る。(此時分は寄宿舎にゐる)。七月中旬菊池謙二郎米山保三郎と日光に行く。
十月高等師範學校の講師となる。(年俸四百五拾圓)
二十圓づつ父に送つてあとの金で生活する。十二月九日届出をして北海道から牛込喜久井町一番地に寄留する。
仝廿七年
二月初め風邪から咽喉を惡くし夫から血痰が出たので心配する。弓の稽古を始める。五月末いまだ用心のため薬をのんでゐる。八月松島に行き歸京後直ぐ又南相の海岸に赴き九月三日歸京。シエレーを愛讀するといふ事が手紙にある。十月中旬大學の寄宿舎を出て小石川區表町七十三番地法藏院に下宿する。十二月末鎌倉に行つて宗演會下にて参禪。
仝廿八年
一月七日下山歸京。四月大學院退學高等師範辭職山口高等學校からの招きを斷つて松山中學に赴任する。月俸八十圓、四月十二日に藤野古白が自殺する。五月二十六日には松山市一番町愛松亭にゐる。此頃俳句が作りたい氣になつてゐる。七月二十六日には二番町八番戸上野方の離れを三間かりて下宿してゐる。七月山口高等學校から再度の勸誘があつたが謝絶する。八月末正岡子規松山に歸省、八月二十七日頃から上野に泊り込んで同志をあつめて頻に運座をする。運座に折々引込まれる。十月十九日子規出發上京。松山で頻に妻帯を勸められる。貰つても可い氣になつたが、氣に入つたのがない。東京から貰う氣になる。十一月白猪唐岬に觀瀑。十二月下旬歸京。
仝廿九年
一月中根重一氏の長女鏡と見合をする。上旬松山に歸る。陶淵明を愛讀するといふことが手紙にある。四月第五高等學校の講師(一ケ月百圓)になる。四月十日松山に出發虚子と宮島を見物、別れて四月十三日熊本着。光琳寺に卜居。六月八日中根重一長女鏡をつれて熊本に來る。九日結婚略式をあげる。七月九日教授(高等官六等五級俸)になる。八月一週間計り博多久留米地方を旅行。九月十日正七位になる。九月下旬合羽町二百三十七番地に轉居。十月の「龍南會雑誌」に『人生』をかゝげる。十月教師をやめて文學的生活を送りたい氣になつてゐる。十一月中旬學性の修學旅行について天草島原地方旅行。
仝三十年
二月九日「江湖文學」の爲に『トリストラム・シャンデー』を脱稿。四月久留米地方旅行。四月帝國圖書館が出來るについて、文學的生活を送りたい希望から、そこに這入りたいと思つてゐる。東京高等商業學校から招かれたが謝絶。四月二十二日給令改正につき七級俸相當といふ事になる。六月 日父直克逝く。七月夫人鏡を伴つて歸京。八月中旬より九月上旬まで鎌倉に避暑。九月八日病気療養の夫人を殘して獨り西下。十月午後熊本に着。飽託郡大江村四〇一に轉居。十月『ホトトギス』發行所が松山から東京に移される。十月二十九日學術研究の爲め福岡佐賀兩縣下へ出張を命ぜられる。冬休みに小天榲泉に行き越年。
仝丗一年
三月「新俳句」が出る。七月七日六級俸。十一月十二月の「ホトトギス」に『不言之言』をかゝげる。十一月學生の修學旅行につき山鹿地方を旅行する。此年はあまり俳句をつくらなくなつてゐる。
仝丗二年
一月一日出發宇佐より耶馬渓を經て日田に出て吉井に泊つて歸る。四月の「ホトトギス」に『英國の文人と新聞雑誌』をかゝげる。五月三十一日長女筆生る。六月八日高等官五等。六月二十一日大學豫科英語科主任になる。「ホトトギス」の爲めに七月二十七日『小説エイルヰンの批評』を脱稿。八月末(或九月初)阿蘇登山。九月には内坪井町七十八番地にゐる。十月十日從六位。前年に比べると俳句が割に多い。
仝丗三年
四月北千反畑に轉居。四月二十四日教頭心得。五月十二日英語研究の爲め滿二年英國に留學を命ぜられる。七月上京牛込區矢來町の中根にゐる。九月九日プロイセン號にて橫濱解纜。同行者藤代禎輔氏芳賀矢一氏等。上海、香港、新嘉坡、彼南、コロンボ、アデン、スエズ、ボートサイド、ナオリを經て十月十九日ジエノワに上陸。十月二十一日巴里着。二十八日倫敦着。大塚保治氏の紹介にて 36 Gower Street の下宿に這入る。十一月一日ケムブリツヂに赴き二日ロンドンに歸る。十一月七日より University College で Prof. Ker の講義をきく(二ケ月位)。十一月十二日 85 Priory Road、 West Hamstead、 に轉居。十一月二十三日より Prof. Ker の周旋で一週一度で Craig の處に行く事になる。十二月二十六日には 6 Flodden Road、 Camberwell New Road にゐる。此年は殆んど句をつくらない。
仝丗四年
一月十六日次女恒子生れる。一月二十三日女皇ヴイクトリア崩御。二月九日狩野享吉大塚保冶菅虎雄山川信次郎連名の長い手紙をかく。其末に留學期を延して仏蘭西に半年ばかりゐたいといふ事と歸つたら熊本に行きたくないが第一に雇つて貰へないかといふ希望とを漏らす。三月二十九日 Glasgow University の examiner に任ぜられる。四月九日、二十日、二十六日、三回に亙つて子規の爲めに長い手紙をかく、「ホトトギス」に『倫敦消息』としてかゝげられる。四月二十五日今迄の主人と一緒に Tooting の方に移轉する。五月五日池田菊苗氏が同じ宿に來る。六月二十六日去る。文學を科学的に研究する事の刺激を池田氏から得る。七月二十日 81 The Chase、 Clapham Common、 の Miss Leales 方に移る。八月一日英詩 Life's Dialogue を脱稿、後に Craig に見せたら Blake に似ているが少し inconerent (注: 原稿のままのスペル)だと言つたさうだ。
八月十五日土井晩翠が同じ宿に來て暫くとまる。八月十九日の手紙に英文學者になる事の馬鹿々々しさを感ずる旨をかく、九月二十二日の手紙に文學書はいやになり科學上の書物を讀んでゐるといふ事と歸朝後一巻の著書を公にしたい旨とがかいてある。
仝丗五年
四月半中村是公にロンドンで會ふ。七月歸朝のついでに淺井忠氏同宿。九月十七日正岡子規逝く。運動の爲秋自轉車の稽古をする。十月スコツトランドに行く。十二月五日ロンドン出發歸朝の途につく。
仝丗六年
一月二十三日歸朝。矢來の中根にゐる。二月二十六日牛込北山伏町三十一番地に轉居の筈の處都合にてやめる。三月初旬第一高等學校並に東京帝國大學講師となる。三月より文科大学にて『文學形式論』を講ず。並にシエクスピヤのマクベス(注: 原稿に?あり)
三月末千駄木に卜居。三月三十一日第五高等學校をやめる。五月頃より虚子四方太のホトトギスの同人から俳句を作る方に引入れられる。七月の「ホトトギス」に『自轉車日記』を掲載。夏休みにスケツチブツクに水彩畫をかく。八月以降英詩數章あり。九月の新學年より文科大學にて『文學論』を講ず。十二月十日「帝國文學」の爲に『マクベスの幽霊について』を脱稿。
仝丗七年
『セルマの歌』を飜譯して二月出版の「英文學會叢誌」 (注: ?マーク 會にX印) に寄す。寺田寅彦、橋口貢、橋口五葉等と水彩畫繪葉書を交換す。五月の「帝國文學」に『從軍行』を寄す。五月「子羊物語」の序を書く。六月轉居の意志あり。七月、八月の「歌舞伎」に『英國現今の劇状況』(談話筆記)を寄す。夏休みに水彩畫をかく。七月頃より虚子四方太等と俳體詩をつくる。十一月、十二月の「ホトトギス」に虚子と合作の長編俳體詩『尼』を發表す。十一月三女エイ子生る。十二月二十一日頃新年の「帝國文學」の爲に『倫敦塔』脱稿。
仝丗八年
正月の「ホトトギス」に『吾輩は猫である』が出る。一月十日頃『吾輩は猫である』の續篇脱稿。一月十五日發行の「學燈」に『カーライル博物館』がでる。二月九日『幻影の盾』を執筆、十八日頃脱稿。三月五日頃『吾輩は猫である』の三脱稿。二つとも四月一日發行の「ホトトギス」に掲載。三月十一日明治大學にて講演。四月十一二日頃泥棒が這入る。四月二十九日自宅にて文學會。自作の『琴のそら音』を讀む。「七人」に寄す。『批評家の立場』を五月の「新潮」の爲に談話。六月三日文學會。六月『ワーズワースの詩』の序をかく。七月二十六日『一夜』脱稿。「中央公論」に寄す。七月大學をやめたい氣になる。『文學論』講了。『戦後文壇の趨勢』を八月の「新小説」の爲に談話。『水まくら』を八月の「新潮」の爲に談話。九月より『十八世紀英文學』の講義を始む。九月十五日泥棒が這入る。十月『吾輩は猫である』の上篇出版。十一月一日の「中央公論」に『薤露行』が出る。十二月四日から『趣味の遺伝』執筆、十一日脱稿。十二月十二日から十七日迄『吾輩は猫である』の六執筆。十二月四女アイ子生れる。
仝丗九年
三月十七日頃から『坊ちやん』執筆、二十四日頃脱稿。『余が文章に稗益せし書籍』を三月の「中學世界」のために談話。
四月一日の「ホトトギス」に『坊ちやん』と『吾輩は猫である』の十が出る。五月『文學論』出版の爲原稿の整理を中川芳太郞に託す。五月末『漾虚集』出版。七月十一日『吾輩は猫である』の十一脱稿。『余が中學時代』を七月發行の「名士の中學時代」の爲に談話。八月一日頃から『草枕』執筆、九日脱稿。九月の「新小説」に出る。八月三十一日エイ子さん赤痢にて大學病院に入院。九月六日から『二百十日』執筆、十日脱稿。十月の「中央公論」に出る。九月十八日奥さんの父中根重一死去。十月八日、木曜の三時からを面會日と定める。十一月中旬『吾輩は猫である』中篇出版。十月二十日明治大學をやめる事にする。十月二十九日『文學論』序を脱稿。讀賣新聞に掲載。『人工的感興』を十月の「新潮」の爲に談話。十一月十一日から『文學論』の原稿を校閲し始める。十一月十五日讀賣新聞より文藝欄擔任の申込あり。十一月の「文章世界」の爲に『余が「草枕」』を談話。十一月の「ホトトギス」の爲に『文章一口話』を談話。十二月九日から『野分』執筆、十二月二十一日脱稿。正月の「ホトトギス」にのる。十二月下旬『鶉籠』出版。十二月二十七日西方町へ轉居。
仝四十年
一月一日の讀賣新聞に『作物の批評』、一月二十日の同紙に『寫生文』を寄す。『滑稽文學』を一月の「滑稽文學」の爲に談話。二月二十二日以後の日曜の午前に坂元が來る、朝日入社の勸誘。その後三月四日以前に大學から英文學口座擔任の相談がある。『家庭と文學』を二月の「家庭と文學」の爲に談話。『僕の昔』を二月の「趣味」の爲に談話。『漱石一夕話』を二月の「新潮」の爲に談話。三月十五日「朝日」の主筆池邊吉太郎がたづねて來る。夫にて入社の決心をする。
三月二十日頃『文學論』の訂正をすませる。三月二十五日大學、高等學校に辭職届を出す。同じ頃明治大學辭職。三月二十八日出發、京都に遊ぶ。狩野享吉方滞在。四月九日の「大阪朝日」に『京に着ける夕』が出る。四月十二日歸京。四月二十三日『野薔薇』の序をかく。四月二十五日美術學校にて『文藝の哲學的基礎』を講演す。五月三日入社の辭を「朝日」に掲げる。次で講演筆記を訂正して「朝日」に連載す。五月二十八日『虞美人草』豫告が出る。五月末『文學論』出版。六月四日『虞美人草』執筆にとりかゝる。(六月二十三日から新聞に掲載、) 六月 日長男純一生る。六月『東京見物』の序をかく。六月末『十八世紀英文學』を瀧田と森田とで分擔して浄書する事になる。七月慶應義塾と早稲田大學とから教師になつてくれと言つて來る。八月末『虞美人草』脱稿。九月『名著新譯』の序をかく。九月二十九日早稲田に轉居。
十月二十六日『草雲雀』の序をかく。『虞美人草』十月二十九日紙上にて完結。十一月十一日『鶉籠』の序をかく。 (十二月二十三日の「朝日」に出る。) 十一月『文學入門』の序をかく。十二月十日新聞に小説をかく事をたのまれる。十二月十六日にはもう書き出してゐる。『坑夫』
仝四十一年
一月一日より「東京朝日」に『坑夫』が出る。一月末に『坑夫』をかいて了ふ。一月の「趣味」の爲に『愛讀せる外國の小説戯曲』を談話。二月初めから寫生新について謡の稽古をする。二月十五日朝日新聞社主催の講演会の爲に青年會館にて『創作家の態度』を講演す。三月十六日より講演の筆記に手を入れ始め二十五日に出來あがる。四月の「ホトトギス」に掲載。四月六日『坑夫』新聞紙上にて完結。四月の「文章世界」の爲に『坑夫の作意と自然派傳奇派の交渉』を談話。
「大阪朝日」に六月十三日から『文鳥』が出はじめる。六月の「新小説」の爲に『近作小説二三に就いて』を談話。七月一日『夢十夜』の第一夜を大阪に送る。「東京朝日」には七月二十五日より八月五日に亘つて掲載される。七月發行の『國木田獨步」 (注: 『 」 は原稿のママ) の爲に『獨步氏の作品』を談話。八月初めから『三四郎』執筆。八月十九日『三四郎』の豫告が出る。九月一日より「朝日」に『三四郎』が出る。九月中旬『艸合』出版。九月十六日にまだ『三四郎』をかいてゐる。九月の「文章世界」の爲に『私の處女作』を、九月の「ホトトギス」の爲に『正岡子規』を談話。十月の「早稲田文學」の爲に『ズーデルマンの作品』を談話。十一月七日の「國民新聞」文學欄に『田山花袋君に答ふ』が出る。十一月の「新潮」の爲に『文藝は男子一生の事業とするに足らざる乎』を談話。十一月二十三日には『十八世紀英文學』改題『文學評論』 の校閲をしてゐる。十二月二十六日にはもう濟んでゐる。十二月二十九日『三四郎』新聞紙上にて完結。十二月次男伸六生れる。
仝四十二年
一月一日の「朝日」に『元旦』をのせる。一月十二日『小説に用ふる天然』を「國民新聞」文學欄の爲に談話。一月十四日より二月十四日に亘つて『永日小品』中の十六篇を「東京朝日」に掲載。『永日小品』中の他の七篇は 月 日より 月 日 に亘つて「大阪朝日」に掲載。一月の「中學世界」の爲に『私の學性時代』を、一月の「趣味」の爲に『文壇の趨勢』を談話。二月二日『新春夏秋冬』夏の部の序をかく。
二月十一日に『紀元節』を「大阪朝日」に掲載。二月の「新潮」の爲に『余の描かんと欲する作品』を談話。三月中旬『文學評論』出版。三月から獨逸語の稽古をはじめる。五月三日『太陽雑誌の名家投票に就いて』を して「東京朝日」に掲ぐ。五月十五日「國民新聞」文學欄の爲に『明治座見物の所感』をかく。五月中旬『三四郎』出版。五月十九日「國民新聞」文學欄の爲に『メレデイスの訃』を談話。五月三十一日『それから』をかき始める。六月二日夜『長谷川君と余』をかいて「二葉亭四迷」に寄す。六月十二日「國民新聞」文學欄に『歌舞伎座の所感』をかく。六月二十一日『それから』の豫告が出る。二十七日に第一回が出る。七月三十一日に中村是公から滿州に新聞を起すから來ないかと言はれる。八月六日の「國民新聞」文學欄の爲に『テニソンに附て』を談話。
八月十四日『それから』をかき終る。八月中村是公のすゝめにより滿州旅行を思ひ立つ。八月二十日激烈な胃カタールに罹る。二十六日離床。九月五日の「大阪朝日」に『額の男を讀む』が出る。九月二日東京出發、七日大連着。旅順、撫順、熊岳城、榮口、湯崗子、奉天、長春、ハルビン、平壌を經て京城に至り京城を十月十三日發廣島に一泊、大阪に下車、京都に一泊、十月十七日歸京。『それから』は十月十四日で紙上完結。十月『俳諧新研究』の序をかく。十月二十一日から『滿韓ところどころ』が「東京朝日」に出はじめる。(十二月三十一日迄)
十一月七日「國民新聞」文學欄の爲に『夢の如し』の評をかく。十一月二十五日から朝日文藝欄が始まる。十一月二十五日『煤煙』の序を出す。十二月二十六日『日英博覧會の美術品』を出す。
仝四十三年
一月一日「東京朝日」に『元旦』をかく。一月五日『東洋美術圖譜』をかく。一月『それから』出版。二月一日『客觀描冩と印象描冩』をかく。三月一日より『門』紙上に出始める。三月二日五女雛子生れる。三月十八日『草平氏の論文に就いて』をかく。五月下旬『四篇』出版。六月始め『門』をかき終る。六月九日 (注: 日付に?あり) 『長塚節の小説「土」』を紙上にかゝぐ。六月九日胃腸病院に行く。胃潰瘍の疑ありと言はれる。六月十二日『門』紙上にて完結。六月十八日胃腸病院入院。七月十九日『文藝とヒロイツク』を、七月二十日『艇長の遺書と中佐の詩』を、七月二十一日『鑑賞の統一と獨立』を、七月二十三日『イズムの功過』を、七月三十一日、八月一日『好惡と優劣』(上下)をかゝぐ。七月三十一日退院。八月六日修善寺に轉地菊屋別館に投宿。胃の工合わるく八月十二日擔汁と酸液とを吐く。八月十三日より十五日までに『自然を離れんとする藝術』をかゝぐ。十七日吐血。十九日吐血。二十四日吐血。
九月二十五日初めて床の上に置き直つて食事が出來る。十月十一日歸京。直に胃腸病院に入院。十月二十日『思ひ出す事など』の第一回をかく。十月二十九日より紙上に出始める。病院でフランス語の稽古をする。
仝四十四年
一月『門』出版。一月、二月の「學性」の爲に『語學力養成に就いて』を談話。二月十九日紙上にて『思ひ出す事など』完結。二月二十一日博士號を辭退す。二月二十四日の「朝日新聞」の爲に『博士問題』を談話。二月二十六日胃腸病院を退院す。三月六日より八日に亘つて『博士問題とマードツク先生と余』を「朝日新聞」に掲載す。三月七日の「朝日新聞」の爲に『博士問題の成行』を談話。三月十六日、十七日の「朝日新聞」に『マードツク先生の日本歴史』を、四月十三日『病院の春』を、四月十五日『博士問題の成行』を、五月十八日より二十日に亘つて『文藝委員は何をするか』を、五月二十三日『書斎より街頭へ』の評をかゝぐ。
六月三日雅楽稽古所に雅楽を見る。六月五日六日『坪内博士とハムレツト』を掲ぐ。長野の教育會にて講演(『文藝と道徳』)の爲夫人同伴六月十七日東京出發。高田直江津諏訪甲府を經て二十一日歸京。六月二十一日美術會にて『文藝と道徳』講演。七月四日『子規の畫』を「朝日新聞」に掲ぐ。七月十日ケーベル先生に招かれる。七月十四日『學者と名誉』を七月十六日十七日『ケーベル先生』を、七月十九日二十日『變な音』をかゝぐ。
七月二十一日中村是公と鎌倉へ行く。翌日歸京。七月二十五日より三十一日に亘つて『手紙』をかゝぐ。朝日新聞主催の講演會に列席する爲八月十一日出發。(明石、堺、和歌山、大阪)。八月十九日大阪にて胃潰瘍にて湯川病院に入院。八月『切抜帖より』が出る。九月十四日歸京。九月二十日神田錦町佐藤病院にて痔疾療治の爲め肛門切開、九月二十九日漸く起き上る。『朝日講演集』出版につき演説の筆記を訂正。
十月池邊吉太郎「朝日」の主筆をやめる。十月二十四日朝日文藝欄をやめる事にする。十月末迄なほりそこなつてぐづぐづしてゐる。十一月一日辞表を提出。十一月二十日辞表撤回。
十一月『朝日講演集』出版。十一月二十九日五女雛子逝く。十二月二十八日まだ佐藤病院に通つてゐる。十二月中旬より『彼岸過迄』をかき始める。
仝四十五年大正元年
一月一日より『彼岸過迄』が「朝日新聞」に出る。二月廿八日池邊三山逝く。三月一日「朝日新聞」に『三山居士』を掲ぐ。四月にはまだ隔日醫者に通つてゐる。四月二十五日小説かきあげる。四月二十九日紙上完結。五月十三日『極北日本』の序をかく。五月『池邊君の史論に就いて』をかく。五月『「土」に就いて』をかく。五月二十八日初めて墨繪をかく。(書は四十二三年頃から比較的かいている)。六月の『學燈』に『余と萬年筆』をかゝげる。六月二十九日鎌倉行、三十一日歸京。七月二十一日紅ケ谷に貸別荘をかりて家族を避暑させる。
七月三十日明治天皇崩御。改元
八月十七日中村是公氏と盬原に行く。日光輕井澤上林等を經て三十一日歸京。九月十一日中村是公同道にて鎌倉に釋宗演師を訪ふ。九月二十二日『初秋の一日』を「大阪毎日」にかゝぐ。九月下旬『彼岸過迄』出版。九月二十六日佐藤病院に痔疾最後の手術の爲め入院。十月二日退院。十月十五日より十月二十八日迄『文展と藝術』を「朝日」に連載。十一月頃から水彩畫具にて繪をかく事に興味を持ち出す。十一月三十日から『行人』をかき始める。十二月六日から『行人』紙上に載る。十二月美音會入會。
仝 二年
二月末『社會と自分』出版。三月末より胃潰瘍にかゝる。『行人』のうち『歸つてから』迄にて一應擱筆(四月七日)。五月二十八日初めて外出池邊三山の追悼會に出席。六月十日『傳説の時代』の序をかく。病後の消閑に繪をかいてゐる。七月末油繪具を買つて來て油繪の稽古を初める。 (然し油繪をかいた期間は短い)
九月十五日『行人續稿に就いて』を掲ぐ。十六日から『行人』のうちの『塵勞』が出はじめる。 (十一月十五日完結)。 『彼岸過迄』以來原稿をすこしでかく習慣がつき、今度は病後故餘計にさういふ習慣がつく。十二月十二日第一高等學校にて講演『模倣と獨立』。
仝 三年
一月『行人』出版。一月七日より十二日に亘つて『素人と黒人』を「東京朝日」に掲ぐ。一月十七日高等工業學校にて講演。三月の「俳味」の爲に『釣鐘の好きな人』を、三月二十二日の「大阪朝日」の爲に『日常生活』を談話。四月二十日頃から『心』が出はじめる。午前中だけ日課のやうにして小説をかく習慣になる。七月末ケーベル先生に招待される。八月一日『心』をかき終る。八月十一日『心』紙上にて完結。
八月十日『ケーベル先生の告別』をかく。八月十三日『戦争から來た行違ひ』をかゝぐ。九月半激しい胃カタールにかゝる、十月末起床。十月十一日の「大阪朝日」のために『文壇のこのごろ』を談話。十月『心』出版。表装見返扉奥附等一切自分で意匠する。
十一月十日天臺道士還暦祝賀會發起人として名前をならべる。文學博士の肩書がつけてあつたので當事者にさう言つて抹消して貰ふ。十一月二十五日學習院にて『私の個人主義』講演。十二月美音會退會。
仝 四年
一月十三日『南國へ』の序をかく。一月十八日『唐草表紙』の序をかく。一月十三日より二月二十三日まで『硝子古の中』(注: 古 は原稿のまま)を「東京朝日」に掲載す。二月十四日にかき終る。三月十九日出發京都へ旅行。胃の工合が惡いので二十五日に立つて歸らうとする。醫者がとめるので寝臺を斷つて床につく。三月旅行中に長姉ふさ逝く。四月十七日歸京。四月『硝子戸の中』出版。装幀其他凡て自分の意匠による。『道草』六月三日から出はじめる。九月十日にて完結。九月『文藝批評論』の序をかく。十月中旬『道草』出版。十月十一日『津田清楓君の畫』をかく。十一月九日中村是公氏と湯河原行十一月十七日歸京。
仝 五年
一月一日より仝二十一日に亘つて『點頭録』を掲ぐ。リユーマチスの氣味にて一月二十八日から中村是公氏と一緒に湯河原に行く。二月十六日歸京。四月謡の稽古をやめる。四月末糖尿病の氣味あり神經痛の方も全治に至らず。五月二十日頃より『明暗』をかき出す。五月二十六日より紙上に出はじめる。八月半頃から午前『明暗』をかき午後日課の樣にして漢詩を作り始める。九月の『日本及日本人』の爲に『文藝の一長一短』を談話。十一月二十三日發病。十二月九日逝去。十二月十四日まで『明暗』つゞく。
漱石先生年譜 終
(以上がタイプ打ちされた「漱石先生年譜」のすべてである)