漱石は、明治40年(1907)2月、東大を辞めて朝日新聞社に入社した。そのとき、斎藤は20歳。旧制第二高等学校の生徒であったが、翌年の明治41年7月、漱石と入れ代わるように、東大に入学した。後年、斎藤は、「私が東大に入学した時は、夏目漱石も上田敏も既に去り、日本人はひとりも教えていなかった。」(一学究の思い出、『著作集 別巻』、450ページ)と書いている。
斎藤の漱石追悼文は、それから10年後、大正6年(1917)、30歳の時に書かれたのだが、斎藤はすでに東大講師にして、新進気鋭の英文学者に成長している。前年には、シェイクスピアの没後300年にあわせ、『シェイクスピア――彼の生涯及び作物』(丁未出版社、1916)を上梓していた。(斎藤の90年に余る英文学者人生を、10年単位のスパンに区切ってみると、このあたりまでを第一期とみなしてよかろう。)
斎藤勇がこの追悼文を書いた時、岩波書店内では、第一次漱石全集編纂の激務が始まりかけていた。わずか1年余りで、当時知られるかぎりの断簡零墨までを集め、漱石の一周忌にあわせ、大正6年12月に刊行しようというのである。(詳細については、他の拙論の該当箇所を参照。後年、斎藤と時を同じくドイツへ留学する小宮豊隆も編集者の一人に加わっていた。)
ということは、漱石をしっかりと読み込んでいる斎藤の追悼文であるが、しかしそれは、今日の我々のように全集を手っ取り早く一覧できる環境下にはまだなかったということである。その時点では、いちいち単行本に拠るしかなかった。
後日斎藤は、友人の中には、漱石初版本のほとんどを所有している者がいたが、自分はそれほど熱心ではなかった、という意味のことを述べている。いずれにしろ、斎藤は、従前から、単行本によって、漱石をしっかりと読んではいたのである。(なお、『吾輩は猫である』などが載った初出の月刊雜誌『ホトヽギス』、さらには、日刊の「朝日新聞」に載った多くの新聞小説の本文を揃えて通読するのは、当時の上野図書館へでも行かないと、無理であった。)
『シェイクスピア――彼の生涯及び作物』については、昭和24年(1949)に大幅に改訂された『シェイクスピア研究』「序」の冒頭で、「Shakespeare 鳥瞰図のおぼえ書きとして三十三年前、彼の歿後三百年記念の年に出した本を全部書き改めて、」と書かれているが、シェイクスピアの作品と生涯を概観した400ページ余りの書物である。「概観」とはいえ、若干29歳でシェイクスピアのような大作家に関する著書をものにするのは、今も昔も大変である。この本は、東大の主任教師で、本書が出る直前に逝去した John Lawrence へ捧げられている。「この一書を ジョン・ロレンス先生の靈に 獻げまつる」とあるが、斎藤は東大入学以来、ロレンスに特訓された。ロレンスは、philologist で、「文学批評にはあまり深入り」せず、注釈はおもに語学的で、作品本文の厳格な読みに徹する教え方をしたようだ。これは、斎藤の生涯にわたる学風にも深い影響を与えたように思われる。
斎藤は、その後の10年間、40歳までには、大正12年(1923)に東大助教授、2年間にわたる英国留学(大13.4 - 大15.6 )を果たし、昭和2年(1927)に文学博士となる。このあたりで、斎藤は、否が応でも、日本英文学研究の指導者的な立場を宿命付けられたことになる。同年、日本英文学研究史に特筆される「邦文英文學史」の初版、『思潮を中心とせる英文學史』を上梓したのは、斎藤の重荷を端的に示すものであろう。
斎藤自身、後年(70歳)、昭和32年(1957)の第四版の序で、「曾ては思慮ともしきがため、僭越にも、年若くしてイギリス文學史を公刊したが、今はそれを後悔している」と述べている。この本を書かず、延々、半世紀にわたって続いた改訂・増補の労力が必要でなかったならば、斎藤は、もっと自由に且つ多角的に研究(作家や作品の各論)を行う余裕ができていたであろう。
斎藤は、どのような思いで、この「文学史」の執筆を決意せざるを得なかったのか。我々としても、それを知るために、初版、『思潮を中心とせる英文學史』の「序」をしっかりと読んでおく必要がある。
(3)『思潮を中心とせる英文學史』初版の「序」
研究社は、明治40年(1907)に「英語研究社」として創立された。漱石が東大を去った年である。ウエッブにある「代表的出版物で見る研究社の歴史」には、昭和2年の出版物として、岡倉由三郎編「新英和大辞典」と斎藤勇「思潮を中心とせる英文學史」を載せている。大正元年(1912)には、市河三喜「英文法研究」と山崎貞「英文解釈研究」が出ているので、15年おくれの斎藤の『英文學史』は、出版の面からも出るべくして出た本のように思われる。
『思潮を中心とせる英文學史』初版本には、その豪華な造本にまず驚く。漱石との関連で書いているこの小論でなくても、漱石の初版本、ある意味、類書ではある『文學論』や『文學評論』の豪華な造本と比較したくなる。斎藤の本は横組みではあるが、漱石本と同様に、菊判の天金でアンカット。「定價 金 四圓八拾錢」 当時の研究社の他の出版物の子細はよく知らないが、文芸出版社ではなく、学術出版社から出た学術書でこのように装幀されているのである。斎藤に、漱石本への意識がなかったか。タイトルも凝っていて、ハーフタイル『英文學史』の次に、英語と日本語両方の本タイトルリーフがある。(第四版以降、日本語の方は省略された。)
「序」は次のような書出しで始まる。
東京帝國大學文學部、英文學科學生のため、1926年四月から
1927年三月まで、一週二時間づつ述べた講義(第十九世紀初葉
まで)を骨子として、それに書き加へたものが、この拙著である。
講義には論述の簡潔摘要といふことが必要な條件であつた。僅
か四百五十頁の中に凡そ千年間の英文學――恐らく各國の文學
中でも一番研究資料の豊富な英文學の歴史を説かうとするの
であるから、勢ひ簡單に過ぎる虞れがある。けれども、私の主眼
とする點は、英文學が Beowulf から The Dynasts に到るまで、如
何なる主潮を取つて流れて來たかを明らかにしたいことである。
そして其の主潮を觀る時、私は自由と法則との消長に重きを置
いた。この觀察は一介の私見に過ぎないので個々の事柄に對す
る誤つた解釋や間違つた見方などがあるかも知れない。けれど
も、自由と法則とが英國國民性の二大基調であると云ひ得る限
り、この點からの考察はあながち徒勞でもあるまい。
次に斎藤は、「文学史家」になることのむつかしさを、本音で述べている。長い引用だが、熟読吟味すべき内容である。
但し、私が最も耻ぢ且つ虞れることは、古來千年間の作品中讀
破した物が少いため時に或ひは思はざる膠見誤記に陥つてゐる
かも知れないといふ點にある。一體、文學史を書くには先ず各々
の作者について精密な研究を遂げた後に、その時代を論じ、又
各々の時代を詳論し得るに及んで一般論をすべきものであらう。
即ち各論を書いてから概説を試みるべきであろう。(そして各
論の方が概説よりも書き易い。)この方法を採るべきことをわき
まへながらも私が今概説を公けにしようとするのは愚劣な策で
あるが、併し、たとひ私が文學史家として一生を獻げるつもり
であると假定しても、私は上下千年間各時代の作品合せて幾萬
の書を讀破し得ない。(よし萬一それが出來ても私はそれを好
まない。)その中の代表的作品をかりに千部として、それらを通
読することだけでも微力私の如きには出來さうもない。加之、
Dr. Johnson が "No, Sir, do you read books through ?" と
反問したやうに、五六頁を讀んで一巻の書の良否を斷じ得る程
眼光紙背に徹することは、私のやうな凡人の企て及ばざる所で
ある。して見ると、私が Beowulf から The Dynasts までのすぐ
れた英文學史を單身獨力で書くといふことは、全然不可能であ
る。――私ばかりでなく、多分大概の人についても、大體同様の
ことしか言へないだろう。――故に私は各専門大家の研究によ
つて自らの足らざるを補ふことを努め、そしてその負債を、本書
の終りに掲げた参考書目又は脚注に記して、先人の功を謝し、且
つ更に研究を進めようとする讀者のために道しるべを殘して置
くことを忘れなかつたつもりである。私の辿つて來た道を夙に
通過した先輩にして偶々本書を繙く人があるならば、私の見落し
や書き違ひを指摘して私の蒙を啓くに吝かならず、又本書を栞
として英文學の深林を踏み分けて行く學徒にして、私と見解、印
象等を異にする人があるならば、その得易からざる所見を披瀝
して私を奨勸せられたい。これはこの大擔な試みを敢てした著
者が切に願ふ所である。
次のような念押しもしている。
或ひは言をなす者があらう、英米の諸大家が既に簡潔な英文
學史を幾十種となく公けにしてゐるのに、屋上屋を築く必要が
ないと。その通りでもあらうが、私は前述の自由と法則との論
點から英文學の主潮を見直しても見たかつたし、又日本人にと
つて特に説明を要するふしぶしを注意することも、邦文英文學
史の存在を有意義ならしめるものと考へて居る。まして英米の
批評家とは全然獨立の見解を以て英文學史を著はす學者がある
ならば、それは唯に英文學研究上一大貢獻たるのみならず、我々
日本人の精神生活上にも大いなる寄輿であり、そして國文學の
發達にも資する所が少くあるまい。そのやうな邦文英文學史な
らば、いくらあつても多過ぎる筈がない。拙著が到底その名譽
をかち得るものでないことは申すまでもないが、そのやうな學
者に對して何等かの刺激を與へ得るならば、私の望みは幾分か
達せられたことになる。
最後には、執筆年月日と署名を記して、この序を終えている。
一九二七 ・ 八 ・ 二九 斎 藤 勇
(4)斎藤勇の『英文學史』五版までの概要
私の手元にある斎藤の『イギリス文学史』「改訂増補第五版」(研究社、1975)は、昭和54年(1979)1月27日、斎藤の自宅を訪れた際にじかにいただいたものである。添付写真にあるような、その際の斎藤のことばが記されている。
この版では、タイトルの裏ページに、最後の版となった第五版までが、初版から、以下のように記されている。〔 〕は筆者の追加。各版の増刷分は省略されている。
First Edition, November 1927.
Second Edition, reset and enlarged, November 1929.
Third Edition, rewritten and enlarged, October 1938.
Fourth 〔and Final〕 Edition, rewritten and enlarged, July 1957.
Fifth Edition, much revised and enlarged, July 1974.
Reprinted with corrections, 1975.
ただ、この記載、斎藤のウィキペディアでは、版次を明記していないが、一理ある。斎藤の各版は、組み直され、改訂・増補されると共に、書名も変更されており、ある意味、別本とみなすことも可能である。(『シェイクスピア―彼の生涯及び作物』丁未出版社、1916 と『シェイクスピア研究』研究社 1949 も、出版社が変更され、全面的な書き直しとはいえるが、これにやや近い関係と言える。)
思潮を中心とせる英文学史 研究社 1927
思潮中心の英文学史 (増補改版) 研究社 1929
英文學史 改訂増補版 研究社 1938
イギリス文学史(第四増補版) 研究社 1957
イギリス文学史(改訂増補第五版) 研究社 1974
1 思潮を中心とせる英文学史 研究社 1927
上で引用したように、初版の「序」の中で斎藤は、自分のことを、「この大擔な試みを敢てした著者」と述べている。謙虚なことばであるが、その斎藤にも、この出版物が終生の重荷になり続けることを、この時点ではまだじゅうぶん認識できていなかったのではないか。別紙1葉の「正誤表」が添付され、24箇所が正されている。この中には、単純誤植以外に、著者の「訂正」や「改訂」の類も含まれている。これらは、翌年の増刷時に修正されたと思われる。(手元にその訂正版はない。)
2 思潮中心の英文学史 (増補改版) 研究社 1929
初版からわずか2年後の昭和4年(1929)に、全面組み直しの第二版が出た。普及版の体裁で、初版より小型のB6版である。アンカットになっているのは同じだが、天金ではない。値段は、初版とあまり違わない四圓である。なお、「特製版」(large paper copy)が製作されたことが、本版の序に述べられている。
目次の構成は、初版とほぼ同じであるが、中身的には、細かい手入れが行われている。なお、]章C節の後に、初版にはなかった「結語」が追加されている。
斎藤は、それから10年近い間、以下の本を書いた後、昭和13年(1938)、『英文學史』の第三版を出す。
Keats' View of Poetry Cobden-Sanderson 1929
現代文學の諸傾向―英詩 岩波書店 1933
文學としての欽定英譯聖書 新英米文学社 1933、 文学としての聖書 研究社 1944
ミルトン(研究社英米文学評伝叢書 11) 研究社 1933
英詩概論 研究社 1933、 増訂新版 研究社 1958
コリンズ(研究社英米文学評伝叢書 27) 研究社 1935
英国国民性 研究社 1936、 イギリス国民性 研究社 1954
キーツ(研究社英米文学評伝叢書 45) 研究社 1937
3 英文学史 改訂増補版 研究社 1938
この第三版は、二版と同じく小型のB6版である。
それから、20年。斎藤は、領域を広げつつ、次のような本を出した。
キリスト教思潮 研究社 1940、 改訂版 研究社 1955
アメリカ文学史 研究社 1941
アメリカ文学の主潮 研究社 1941
英語讃美歌 その歴史、抜萃、訳註 教文館 1941、 讃美歌研究 研究社 1962
アメリカの国民性及び文学(米国講座叢書)有斐閣 1942
独・仏・伊三国に於ける英文学研究 研究社 1942
杜甫 その人・その詩 研究社 1946
国際思想と英米文学 山海堂 1946
シェイクスピア概観 新月社 1946、 増補版 開文社 1954
ここかしこ 新月社 1948
ブラウニング研究 洋々書房 1948
シェイクスピア研究 研究社 1949
学園随想 ―わかき人々のために― 研究社 1952
星を求める蛾のねがい 青年の文学 南雲堂 1956
その「序」に 「從つてこの版は拙著イギリス文學史の final edition である。」 とされた第四版が出たのは、初版から30年、前回の三版から20年後の昭和32年(1957)であった。
4 イギリス文学史(第四増補版) 研究社 1957
著者70歳。造本的にも、それまでの版とは大きな違いがある。書名は、ハーフタイトルも奥付も、「イギリス文学史」と変更され、本タイトルの英語名は踏襲されたものの、日本語の本タイトルはなくなった。判型は、初版と同じ大型の菊判に戻った。
斎藤にかぎらず、およそどんな著者・作家でも、改訂版を出せば、それを、つまり直近の「改訂」を、最も大事に思うのは自然である。斎藤も、第二版「増補版の序」の中で、次のように書いていた。
故に、著者が從来の版を絶ち、そして引用等の場合には今後の版にみに豫られるやうに望むことは、讀者の諒とされる所であらう。
しかし、我々が、歴史的に斎藤とその「文學史」を考察しようとするとき、著者の「意図」だけに縛られる必要はむろんない。仮に、初版に、斎藤がどれほど覆い隠したい不適切な記述が含まれているとしても、いったん公刊されたものは、すべて歴史的存在であり歴史の証人とみなしていい。文学作品であるか学術書であるかを問わない。斎藤の『文學史』は、歴史的・内容的に、初版とこの第四版が大きな重みを持っているように思われる。
斎藤は、この第四版の「序」で、30年前の初版の「序」をくりかえすかのように、「文學史家」になることの重さ・深刻さを次のように、「後悔している」とまで述べている。
曾ては思慮ともしきがため、僭越にも、年若くしてイギリス文學史を
公刊したが、今はそれを後悔している。そして拙著をできるたけ誤りの
すくないものにしておきたいと考えている。――明快に作品の意義を解
し十分にこれを鑑賞し、正確に批判すること、これが文學研究の第一
義である。そして著作家の生涯、その時代、その國民性などを儉討する
こと、それが文學研究の第二義である。第一義をおろそかにすれば、文
學以外の研究に終り、第二義を怠れば、第一義に誤りなきを保證しかね
る。さて文學史家の任務は、古今にわたる殆んど無數の著作について、
第一義及び第二義の研究を遂げ、そのうえ、史的展開の跡を明らかにす
ることである。まことに多端な仕事である。
今日の我々は、斎藤が、その後第五版を出したことを知っているが、当時の斎藤自身には、これが「最後」のおもいなのである。
故に、文學史家となることは、一生涯むしょうに忙しいものだと言う覺
悟とともに、自ら警戒すべき點を伴う。 ・・・
ある國の文學を研究しようとするならば、いちおう、その國の文
學全史に通じていることは絶対に必要であるが、その文學全史を執筆す
ることは、獨創力に富む有為な青年學者には、幸福となるか否か、疑問
である。それよりも或る作家、或る作品、せめて或る時期だけについて、
徹底的に研究することの方が、はるかにおもしろい仕事であり楽しみで
あろう。
なお、「イギリス文学史」正誤表(18 Feb. 1958)、表裏1葉で、60点近い正誤の一覧表が存在する。この表にも、初版の正誤表と同じく、単純な誤植以外に、斎藤の改訂が含まれている。
5 イギリス文学史(改訂増補第五版) 研究社 1974
この版を出す直接的な動機は、それまでの増刷で紙型が不鮮明となり、組み直しが必要になったことにあるようだ。しかし斎藤は、この機会を利用して、改訂の手を入れた。四度目のこの改訂が、文字通り、Final Edition となった。斎藤、87歳。「改訂増補 第五版 序」で、斎藤は、
初版以来47年ほどの間に3度も改訂増補をしたのに、また改訂の筆を
入れるとは何たる阿呆ぞ、
と、自らをあざけるかのように、次のような苦しい胸の内を述べている。
文学史は動物園や植物園とはちがう。一切の標本を集めることは容易
ならぬ大事業だが、それを正確に分類するだけでも、自然科学としては
一大功績であろう。しかし文学研究は各種の作品を読破して精密な分類
をしても、優劣の区別をつけ、著作の影響を述べて、その評価の跡をた
ずね、または著者自身の批判を加え、かつ各時代の史的展開を明らかに
しなければ、文学史家の任務を果たしたとは言えまい。
(5)宮崎芳三『太平洋戦争と英文学者』(研究社、1999)について
斎藤勇に関するこの小論はまだ道半ばであるが、ここで読者の注意を喚起しておきたいことがある。実は昨年末、斎藤勇のウイキペディアが改訂されて、それを読んでいた最中に、(そこでは言及されていないが)、
宮崎芳三『太平洋戦争と英文学者』(研究者、1999)
という本が出ていたことを、寡聞にして知った。この本が斎藤に関してどのような書きぶりであるかは、以下の引用から想像がつくであろう。宮崎は、「十一章 その他の(二)」、156 - 9 ページまでの数ページで、土居光知を激賞したあと、次の160 ページでは、「えこひいき」という文言を多用しながら、次のように書いている。(下線は別)
しかし、人は、そんなことを私が言うのは私がもともと土居さんがすきでそう言うのだろう、と言うかもしれない。わざわざこの本をとりあげるのは、土居さんへのえこひいきからだろうと言われても、私はそうではないと言う気はない。たとえば私は、本論の中で、まるでねらいの的をしぼるように、斎藤勇という英文学者に焦点をあてて論じているのだが、えこひいきと言えば、私が土居さんに示すそれよりももっと大きいえこひいきを斎藤という人に対して持っている人がいるとして、そのとき、私が本論で論じた『イギリス文學史』について、その人が、著者に対するひいきの心から、私と違ったどういう評価を下すのか聞かせてほしいのである。
挑発的な書きぶりといっていいが、そのあとには、次のような無用な文言も続く。
私が土居さんが好きなのは、つぎのような理由からだ。これは桑原さんが書いていることだが(私はこの人にも教わったので桑原武夫が、とは書けないのである)、
この本は、正真正銘、研究社からの出版物である。「えこひいき」といった不謹慎なことばに、英文学を専攻する者は侮辱された思いがしないか。しかし当時の『英語青年』(May 1, 1999)に載った鈴木健三の書評は、鈴木と宮崎はそれ以前から『英語青年』誌上でこの件で交流があったようだが、私には不可解に思える書きぶりとなっている。
本書は、斎藤勇以外の英文学者に対してはその評価を貶めるような書き方ではなく、戦時中好戦的であったはずの中野好夫への評価が高く、主人公格に仕立て上げた感のある大和資雄に対しても、「戦争をすりぬけ」た典型的人物だと詳述しながら、特に辛辣ではない。
たゞ一人例外があり、斎藤に対してだけは、ページ数は多くはないものの、他とはスタンスの違った書きぶりになっていて、つまるところこの本は、日本における英文学研究の「始まり」とされる斎藤勇とその『イギリス文學史』をけなすことを主たる目的としているかの印象を受ける。その主要部分「九章 もとをたずねる」(132 - 141)は、わずか10ページであるが、斎藤を切り捨てようとしている。
九章(一)では、「日本における学問としての英文学研究は、その始まりからよくないところがあった、と私は思う。」 と書き出す。そして、
以下、どこがどうよくなかったのか説明したいのだが、そのさい、斎藤勇に焦点をしぼって書きたい。と言つても、私の言う通りによくないところがあったとしても、それを斎藤ひとりのせいにするつもりは私にはない。あのとき彼はひじょうにむづかしい仕事をしたのであり、たぶん彼以上のことは他の誰にもできなかったろう、と私は思うから。
と言いながらも、「斎藤評価がどこまで本当か、・・・ 斎藤から始まったという学問がどういう中味のものかっじっさいにしらべてみたい」 ということで、斎藤勇とその『イギリス文學史』を、私には到底理解不能な論法なのだが、けなし始めるのである。
宮崎は、斎藤の『イギリス文學史』を「妙な本だ」(133ページ)と重箱の隅をつつきながら述べた後で、こんなふうに書く(137ページ)。
――そんなことを斎藤は考えていたのか、と私は彼について新鮮な発見をしたような思いがしたのである。そして、それならば、と私は想像するのだが、彼は英文学史を書くとき、ふた通りのやり方を考えたということになる。
A 日本人の見地に立った英文学史
B じっさいに彼が書いたような英文学史
それから、宮崎は、このふた通りを、パラフレーズして書き直す。
A' 日本人学者の立場で書かれた英文学史
B' 学者の書いた英文学史
そして、宮崎はこう結論づける(141ページ)。
斎藤の『イギリス文學史』はこの B' の方の本だ。その著者の立場――私の言う「ただの学者」という立場――がよくわからなくて、だから私はこれを妙な本だと言ったのである。そのわかりにくさのもとをただすと、学問感の違いに行きつく。私から言えば、斎藤はそこでかん違いをしていたのだということになるが、それに対して、考え方の違いはどうしようもない、とでも彼はいうのだろうか。
これには、九章(二)「囲いの中の学問」 が続くが、宮崎はここでも(144 - 5 ページ)次のように述べる。
その私の実感をもとに図式のようにして言えば、学問と世間はいつも緊張関係の中にいる、ということになる。斎藤の『イギリス文學史』に話をもどすと、この本は、そういう対世間の緊張関係の中から生まれたもではない。その緊張感は、そのどこをさがしてもない。アッケラカンと世間から切り離されているだけである。私の言い方で言えば、この本の著者は自分自身から切り離されて分裂している。
学問研究は、その人の生き方にかかわる、というのが私の考えの中心にある。なぜなら私は自分を失わずに生き通したいから。自分が失われなければ、当然ながらその人としての一定の見方も出てくるのである。その一定の見方をもたない心は、思想以前のものだ、と私は言った。『イギリス文學史』も、著者の心は思想以前だ。
宮崎は、この章の最後で、こう述べる。
日本における学問としての英文学研究は斎藤勇から始まった、というのが定説だが、私はその定説がまるで間違っている、と言っているのではない。斎藤とともに始まったものが本当はなんであったか、自分の目で確かめたものを説明しただけである。彼とともに始まったものは、その後一本の太いすじとしていまもつづいている――戦争があろうがなかろうが、というのが私の結論である。
しかし宮崎は、この本の前半、主に大和資雄に関する第三章46ページで、次のように書いていた。
私の考えでは、アカデミックな学問としての英文学研究をすすめる努力とは、つまりは本場のイギリス人学者に対しても通用する研究を生み出そうとする努力のことであり、当然のことながら、その英文学の研究が日本人によってなされたものだという特徴をうすくしていくのである。当たり前のことだが学問は国境を越える――少なくとも本質にそういう方向をめざす性質をもつ。そこには、学問研究者が自分の仕事に熱心であればあるほど、さいごにはその国籍を失ってしまうような方向にすすんでいく、という事情がある。
それにもう一つ実際的なことを言えば、当時の日本の社会状況を考えると、その中で学問研究をつづけようとすれば、重圧をもって押し寄せる目の前の情況から、どういう形であれ一歩でも距離をおいて離れたところにわが身を置こうとする傾向が研究者の態度に出てきても自然なことである。・・・
私には、宮崎のこの書きぶりこそが、「分裂」していると思う。その分裂度は、この本を子細に読めば読むほど大きく感じられ、そもそも研究社という学術出版社が出す本の書きぶりではない。巷の中小出版社が出すのであれば、何をどう書こうと自由だが。
宮崎は、斎藤の『文學史』を「妙な本」といったが、私から見れば、宮崎の本の方こそ、「妙な本」だと思われる。第一に、他の学者への評価が、本書のタイトルである「太平洋戦争」にどう対したか――戦時中に「思想の力」を問われた英文学者たち(本書の帯)――という視点から述べられているのに対して、斎藤の場合は、上の引用に、「戦争があろうがなかろうが」とあるように、直接戦争とは関係がないところで論じられている。つまるところ、斎藤勇という「権威」が気にくわないので、宮崎の個人的ないやみをぶつけたかっただけであろう。
宮崎が、斎藤の『イギリス文學史』をいかようにくさしても、日本語で書かれた本格的なイギリス文学史は他に類書がなく、そもそも比較のしようがないのである。イギリス文学史関係の本は、斎藤の前にも後にも、多数書かれてはいるが、それはすべてといってもいい、学者が主たる研究の合間に、片手間に書かれたものといっていい。明治以降の英文学者で、「イギリス文学史」をその主著とするのは、斎藤以外にいない。斎藤の場合、著書や論文は多いが、それらはつねに、『イギリス文學史』という主著を補い、補強する役割を果たしている、といっても過言ではなかろう。
宮崎の斎藤批判は、学者を見る宮崎の目の限界を示しているといえる。斎藤は、宮崎には及もつかない深さにまで達していた学者である。その一端を、『蔵書閑談』(研究社、1983)を通して、以下に述べたい。この本は、斎藤が急逝した1982年に出版を予定し自ら編集をしながらも、その出版を自らは目にすることがなかったものである。曰く、「書誌学者としての斎藤勇」
(6)書誌学者としての斎藤勇
私が、斎藤にはじめてお会いしたのは、1979年1月27日であるが、その直前、私は『妖精の女王』(The Faerie Queene 1590)本文研究の論文を書いた。これを最初に読んでいただき、コメントをいただいたのは、実は斎藤であった。ご自宅へおじゃまする前、訪問日をお知らせする手紙へ出来上がったばかりの抜刷を添へて置いたが、お会いした際、この拙論に触れていただき、恐縮すると共に驚いた。拙論は、当時勤務していた大学を離任するに際して、その記念として日本語で書いた論文であったが、中味は英語の書誌学用語の羅列で、少数の同学の士以外にこの論文を読みコメントしてもらえる人など期待してはいなかった。
ところが、斎藤は、拙論中にある、Quarto in eigthts といった専門用語にも通じていて、FQ 初版本についての書誌学的なコミュニケーションもできる方であった。ご年配の学者でありながら、こんな日本人がいたと知った時、自分の思い上がりに深く恥じ入ったものである。私のFQの仕事は、ロングマン版のテキストとして出たのが、それから20年余り後の2001年であったように、まだ端緒についたばかりで、解明すべき多くの難問を抱えていた。
特に、シェイクスピア版本がそうであるように、四つ折り本は、通常、全紙1枚を2度折って、4葉(8ページ)とするが、FQ の場合は、ページ数が多く分厚い四つ折り本なので、全紙2枚(16ページ)を1折丁としている。これを、Quarto in eigthts というのだが、その印刷過程を分析書誌学的に考察した研究の実例はまだ他に存在していなかった。未知の世界故、暗中模索するのが実情であったが、斎藤は、しかし、私のこの説明にもフォローしてくださったのである。
なお斎藤は、本書の 33 - 37 ページに、
9. 「図書に関する術語」 という見出しで、(『英語青年』 1933.4.1 と 『英文学研究』1926.7)へ掲載したものを、まとめて載せている。今日書誌学を学ぶ者には常識的な内容であるが、専門誌にこうした啓蒙的記事がわざわざ書かれたということは、当時の英文学関係者に書誌学的知識が少なかったからであろう。(今日でもある程度いえることではある。)
先に引用したように、斎藤は、『イギリス文學史』増訂第5版(研究社 1974)の序で、次のように書いたが、
文学史は動物園や植物園とはちがう。一切の標本を集めることは容易
ならぬ大事業だが、それを正確に分類するだけでも、自然科学としては
一大功績であろう。しかし文学研究は各種の作品を読破して精密な分類
をしても、優劣の区別をつけ、著作の影響を述べて、その評価の跡をた
ずね、または著者自身の批判を加え、かつ各時代の史的展開を明らかに
しなければ、文学史家の任務を果たしたとは言えまい。
斎藤がここで言っているのは、Fredson Bowers (Textual & Literary Criticism, 1959)流に言えば、文学史家(研究者)であるためには、' both textual and literary critic ' でなければならないということである。斎藤は、そのことを若い時期から悟り、努力してきたのだ。斎藤のアカデミズムは、宮崎芳三にはとても理解できない深さに達していたわけで、それは遺著となった『蔵書閑談』にも端的に見て取れる。
本書には、純書誌学的考察から文芸批評的考察を合わせた論考まで、長短100編ほどが収録されている。漱石の追悼文を書いた大正6年(1917)の2年後から、没年の昭和57年(1982)まで。未公表の貴重な論考も多数含まれている。『蔵書閑談』という書名は、かつて『英語青年』に連載した際の標題を使っているが、初出誌は、これ以外に専門誌の『英文学研究』その他多岐にわたっており、斎藤の博覧強記ぶり・当時の英文学界では超然とした存在、がよくわかる。
本書で私が最初に注目するのは、U.A. 8 Bentley 編 Paradise Lost (『英語青年』1933.7. 1)である。(本書、73 - 78 ページ) これは、前項 7. Paradise Lost の初版 (『英語青年』, 1925. 12. 1)に続くものである。
英国の18世紀には、'Shakespeare Improved' で代表されるように、文学作品の本文の改竄が横行した。Bentleyは、そうした「改竄者」の代表格である。斎藤は、Bentleyの不適切な改竄を具体的に示したあと、次のように述べているが、当時においては、斎藤以外の日本人にはなかなか書けなかった文章だと思われる。
その他二、三の首肯すべき点があるけれども、Bentleyの版が tex-
tual criticism において滅茶なものであることは、あまりにも明白で
ある。そしてこの失敗は彼の不用意とうぬぼれから来ている。彼
は古典学者としての修練を以てすれば、母語で書いた詩などを解す
ることは全く茶飯事に過ぎないと思いあがって、ミルトン遺稿出版
委員長ででもあるかの如く、安楽椅子に寄りかかりながら、勝手に
改訂を試みたのであろう。然るに彼は、ギリシア、ローマの古典にこ
そ通暁しておれ、中世以後のヨーロッパ文学を知らなかった。即
ちミルトンが熟知していた、Divina Commedia, Orlando Furioso,
Gerusalemme Liberata などのみならず、エリザベス朝の文学にすら
不案内であった。つまり彼は古典に没頭したためか、イギリス文学
においても義古典的趣味のほかに文学は存在し得るべきものではない
かのように思い込んでしまって、その結果ミルトンにおける古典趣
味以外のもの、即ち浪漫情調を一切ミルトンらしからぬものと初め
から断定してかかったのである。言いかえれば、この碩学の大失敗
は、己れの学問に頼り過ぎて、不遜の心がまえを反省しなかったこ
とに原因したのではあるまいか。
斎藤は、20世紀のT. S. Eliot や日本にも滞在した William Empson が、ベントリの肩を持っているのを批判してもいる。その後日本で大流行となった「新批評」や「テクスト論」を苦苦しく思っていたはずで、これは、斎藤が、漱石追悼文で書いたこと:
マシュー・アーノルドは近代的の詩人で
評論家だ。夏目氏も近代的な分子をかな
り有つてゐた。けれどもアーノルドが所
謂自然派の提灯持になつたらうと思ひ得
ないやうに、夏目氏は自然派文學全盛時
代にも、殆んど全く異つた行き方をして
ゐた。蓋し氏の道念は自然派作者となる
ことを許さなかつたのである。又何でも
新しい舶来品であればそれが好いといふ
樣な態度をさもしく思つたでもあらう。
を私に思い出させてくれる。
書誌学者としての斎藤の真骨頂を示す論文の一つが、同書 88 - 94ページに掲載の
12. THE OXFORD SAUSAGE (『英語青年』1933. 8. 1 1933. 8. 15)における、出版年の推定である。以下に、89 - 90 ページから、そのまま引用しておきたい。
Tom Warton の茶目ぶりを最も面白く発揮しているのは、The
Oxford Sausage の編者としてである。その点を説明する前に、私は
初めてこの本を手に入れた時のことを一言しておきたい。それは私
がオックスフォドの某書店の地下室に入って、塵だらけの雑書をの
ぞき込んでいた時、このふるぼけた袖珍本を 3s. 6d. で手に入れた
のである。(今は少なくともその千倍ほどでキャタログに出ている。)
そのとびらにはこうある:――
THE OXFORD SAUSAGE; or, Select Poetical Pieces, Written
by the Most Celebrated Wits of the University. A New
Edition, ... Oxford .... Price two shillings and six pence
sewed. [Pott 8vo, 244 pp. ]
出版年はない。そこで私は Bodleian Library に行って調べて見
た。さすがにさまざまな版が保存されている。その後 British Mu-
seum で調べた所と合わせて、初版から順順に年代と発行地とを書
いて見ると、1764 (London), 1765 (Oxford), 1772 (Oxford), 1777
(Oxford), [before 1780 ?] (Oxford), [circa 1800] (Oxford), 1804
(Oxford), 1814 (London), 1815 (London), 1821 (Oxford), 1822
(Cambridge) などがある。私の本には前の所有者が 1803 年購入と
書き記してもいるので、これはどうも 1800 年頃の版らしい。ただ
しそれを Bodleian Library では、' [ 5th edition ] ' と註しているが、
実は第六版とあるべきだ。私はその後 1777 年版が、T. Warton の伝
記者 Richard Mant の Poems (1806) 及び Oxford Prize Poems (1828)
と一緒に綴じ込んであるのを手に入れたが、双方の版が Preface に
は ix, x という風にローマ数字を用いながら Contents からはその
後をうけて 11, 12 とアラビア数字でページを示している。そして
その数が目次から本文へ、そのまま続いている、見慣れない pagina-
tion である。
さて巻頭には frontispiece として、' Mrs Dorothy Spreadbury,
Inventress of the Oxford Sausage ' の肖像として engraving が
ある。その横顔はいかにお婆さんとはいえ、女のやさしさがない。
Mant 編 Warton 詩集巻頭の肖像に髣髴たるものがある。Oxford
Sausage の編者 Warton 自身のカリカチュアであること、申すまで
もない。第四版の序文最後にはこの横顔に言及した一節があるけれ
ども、第六版にはそれが省いてある。
(7)地に足を付けた英文学研究のために
この「地に足を付けた英文学研究のために」の見出しは、2001年にロングマン版The Faerie Queene の出版後、『英語青年』(2002.3)の求めに応じて執筆した拙論のサブタイトルに相当する部分である。この論は、ホームページに掲載してある。
その2ヶ月後、同誌5月号に、「イギリス書物革命」という特集が組まれたので、9月号の Eigo Club へ 「特集 イギリス書物革命」を読んで、という感想文を投稿した。これも、ホームページへ掲載してある。
私がここで指摘した点の一つは、この特集の執筆者の多くが、セカンダリーなソースに頼ったままであったり、書誌学の基礎訓練が出来ていないということであった。斎藤勇は、古くからこのあたりを恐れて、啓蒙を続けていたのである。しかし、日本の英文学研究者の多くがいまだに斎藤の期待からはるかに遠いところにいるようだ。
その意味で、宮崎芳三が『太平洋戦争と英文学者』で書いていること、
日本における学問としての英文学研究は、その始まりからよくないところがあった、と私は思う。
日本における学問としての英文学研究は斎藤勇から始まった、というのが定説だが、私はその定説がまるで間違っている、と言っているのではない。斎藤とともに始まったものが本当はなんであったか、自分の目で確かめたものを説明しただけである。彼とともに始まったものは、その後一本の太いすじとしていまもつづいている――戦争があろうがなかろうが、というのが私の結論である。
は見当違いもはなはだしいといえる。
漱石と斎藤をつないだ英国人学者の一人に、ロンドン大学ユニバーシティコレジの教授であった、William Paton Ker (1855. 8. 30 - 1923. 7. 17) がいる(wiki / William_Paton_Ker)。高名な中世英文学者として、今日の日本でもよく知られている。漱石は、英国留学中の明治33年(1900)11月5日、ケアに手紙を書き、面会を求め、7日に会っている。その際、ケアと話し合って、個人教師を紹介され、それが、William James Craig (1843 - 1906)であった。Craig については、貧乏留学生である漱石から、指導料の前借りを頼むほどの貧乏学者のイメージが強いが、当時、シェイクスピア学界の著名な編纂・校訂者であって、 'The Arden Shakespeare' という最高峰の全集の 'General Editor' (編集主幹) をつとめ、『リア王』を編纂した。
それから、23年後の大正12年(1923)4月、斎藤は英国へ在外研究員として赴くことになる。その際東大の恩師、John Lawrence からは、かつての同僚であったケアを紹介されていた。ところが、そのケアは、斎藤が面接する機会を持たないうちに、アルプスで登山中、心臓病で急逝してしまった。
しかし斎藤とケアとの関わりは、これで終わりではない。大正12年(1923)9月1日に起こった関東大震災によって東大の図書館が焼失したが、ケアの妹さんと未亡人から斎藤へ、ケアの蔵書を東大へ寄贈してもいいという申し出があり、その多くが東大へ渡ることになったのである(『著作集』、第六巻、434ページ)。
ちなみに、小宮豐隆も斎藤より1ヶ月早く、ドイツへ留学中であったが、帰国は震災から1年後の大正13年(1924)9月。東京大空襲から漱石の蔵書を東北大学へ移して守った人としても知られる。
(未完)