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『夏目漱石』六六節  夫婦の問題 ゲラ vs 初版手入れ 全文対照
 
〔なお、今日の読者の多くが手にする文庫本上中下3冊においても、さらに手が加えられている。これは、昭和28年(1953)新書版3冊が出版された際の改訂に拠る。多くは現代表記と文体に係わるものであるが、「改訂版序」に記されているとおり、目立った大きな追加も時折存在する。とりわけこの節では、764、768、773 に重要な追加記述が存在するので、これも該当ページに合わせて示しておきたい。〕
 
 
ゲラ頁 759 初版では 778)
 
 漱石は是までの小説で男女間の?愛を數多く取り扱つて來た。然し夫婦關係を前景に押し出し、
それを主題として全篇を構成してゐるものは、割合に數がなかつた。『猫』には苦沙彌夫婦の生
活がある程度書かれてゐるが、是は多くの場合、刷毛ついでに一刷毛なすつて行つたやうな書き
方である。『野分』には所天の仕事に全然理解のない妻君が描れてはゐるが、然し此所で力點
の置かれてゐるのは所天の仕事で、妻君は言はば「所天を理解しない妻君」の型として描かれ、
所天はそんな事には御構ひなく、超然として自分のしたい事をしてゐるに過ぎない。その點で
『門』は、夫婦關係を主題とする唯一のものであると言つて可いが、然し是も、社會の片隅に追
ひやられた二人が、荒い、寒い外の風を、互ひに抱きあつて堪へて行くといふ事の方に力點があ
るのだから、『行人』とは全然その趣きを異にする。従つて『行人』は、漱石の作品の歴史から言
つて、破天荒の作品である。漱石は此所で、甞て『猫』の中や『野分』の中で、寧ろ密かに觸れ
 
 
(手入れ 759 初版では 778)
 
 漱石は是までの小説で男女間の?愛を數多く取り扱つて來てゐる。然し夫婦關係を前景に押し出し、
それを主題として全篇を構成してゐるものは、割合に數が少ない。『猫』には苦沙彌夫婦の生
活がある程度書かれてゐるが、是は多くの場合、刷毛ついでに一刷毛なすつて行つたやうな書き
方であつた。『野分』には所天の仕事に全然理解を持たない妻君が描き出さる。然し此所で力點
の置かれてゐるのは所天である。妻君は言はば「所天を理解しない妻君」の型として描かれ、
所天は妻君の無理解なぞには御構ひなく、超然として自分のしたい事をして行く。その點で
『門』は、夫婦關係を主題とする唯一のもののやうにも見えるが、然し是も、社會の片隅に追
ひやられた二人が、荒い、寒い外の風を、互ひに抱きあつて堪へて行くといふ事の方に力點があ
つて、『行人』とは全然その趣きを異にする。その点で『行人』は、漱石の作品の歴史から言
つて、破天荒の作品である。漱石は此所で、甞て『猫』の中や『野分』の中で、寧ろ密かに觸れ
 
 
 
(ゲラ頁 760)
 
て來た問題を、主題として取り上げ、それとまともに格闘し、格闘の結果を我我に報告しようと
する。此所には漱石の是までの女性觀もしくは夫婦勸の總決算があると言つて可いのである
 
 『猫』第十一の中で迷亭が、「親類はとくに離れ、親子は今日に離れて、やつと我慢してゐる樣
なものの個性の發展と、發展につれて此に對する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れ
なくては楽が出來ない。然し親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない譯だから、最後の
方案として夫婦が分れる事になる。今の人の考へでは一所に居るから夫婦だと思つてる。夫が大
きな了見違ひさ。一所に居る爲めには一所居るに充分なる丈個性が合はなければならないだろ
う。昔しなら文句はないさ、異體同心とか云つて、目には夫婦二人に見えるが、内實は一人前な
んだからね。夫だから偕老同穴とか號して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蠻なものさ。今は
さうは行かないやね。夫は飽迄も夫で妻はどうしたつて妻だからね。其妻が女學校で行燈袴を穿
いて牢乎たる個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思ふ通りになる
譯がない。又夫の思ひ通りになる樣な妻なら妻ぢやない人形だからね。賢夫人になればなる程個
性は凄い程發達する。發達すればする程夫と合はなくなる。合はなければ自然の勢夫と衝突する。
だから賢妻と名がつく以上は朝から晩迄夫と衝突して居る。まことに結構な事だが、賢妻を迎へ
れば迎へる程雙方共苦しみの程度が増してくる。水と油の樣に夫婦の間には截然たるしきたりがあ
 
 
(手入れ 760)
 
て來た問題を、主題として取り上げ、それとまともに格闘し、格闘の結果を我我に報告しようと
するのである。此所には漱石の是までの夫婦勸の總決算があるのだと言つて可い
 
 『猫』、第十一の中で迷亭が、「親類はとくに離れ、親子は今日に離れて、やつと我慢してゐる樣
なものの個性の發展と、發展につれて此に對する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れ
なくては楽が出來ない。然し親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない譯だから、最後の
方案として夫婦が分れる事になる。今の人のでは一所に居るから夫婦だと思つてる。夫が大
きな了見違ひさ。一所に居る爲めには一所居るに充分なる丈個性が合はなければならないだろ
う。昔しなら文句はないさ、異體同心とか云つて、目には夫婦二人に見えるが、内實は一人前な
んだからね。夫だから偕老同穴とか號して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蠻なものさ。今は
さうは行かないやね。夫は飽迄も夫で妻はどうしたつて妻だからね。其妻が女學校で行燈袴を穿
いて牢乎たる個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思ふ通りになる
譯がない。又夫の思ひ通りになる樣な妻なら妻ぢやない人形だからね。賢夫人になればなる程個
性は凄い程發達する。發達すればする程夫と合はなくなる。合はなければ自然の勢夫と衝突する。
だから賢妻と名がつく以上は朝から晩迄夫と衝突して居る。まことに結構な事だが、賢妻を迎へ
れば迎へる程雙方共苦しみの程度が増してくる。水と油の樣に夫婦の間には截然たるしきたりがあ
 
 
 
(ゲラ頁 761)
 
つて、それもついて、しきりが水平線を保つて居ればまだしもだが、水と油が雙方から働らき
かけるものだから家のなかは大地震の樣に上つたり下がつたりする。是に於て夫婦雑居は御互の
損だと云ふ事が次第に人間に分かつてくる。……」といふやうな事を言つて、今のやうな文明の趨
勢だと、夫婦は別居しなければ納まらないやうになると論じてゐる。同じ『猫』第十一の中で、
苦沙彌がタマス・ナシの本を持ち出して、其所に書いてある「古来の賢哲が女性觀」といふの
を、人人に讀んで聞かせる。――「アリストートル曰く女はどうせ碌でなしなれば、嫁をとるな
ら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きな碌でなしより、小さな碌でなしの方が災少なし」・
人問ふ、如何なるか是最大奇跡。賢者答へて曰く、貞婦」・「或人問ふ、妻を娶る何れの時に於
てすべきか。ダイオジニス答へて曰く青年は未だし、老年は既に遅し。」・「ピサゴラス曰く天下
に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女」・「ソクラテスは婦女子を御するは人間の最大
難事と云へり。デモスセニス曰く人若し其敵を苦しめんとせば、わが女を敵に與ふるより策の得
たるはあらず。家庭の風波に日となく夜となく彼を困憊起つ能はざるに至らしむを得ればなり
と。セネカは婦女と無學を以て世界に於る二大厄とし、マーカス、オーレリアスは女子は制御し
難き點に於て船舶に似たりと云ひ、プロータスは女子が綺羅を飾るのを以てその天稟の醜を蔽ふ
の陋策に本づくものとせり。ヴレリアス甞て書を其友某におくつて告げて曰く天下に何事も女子
 
 
(手入れ 761)
 
つて、それも落ちついて、しきりが水平線を保つて居ればまだしもだが、水と油が雙方から働らき
かけるものだから家のなかは大地震の樣に上つたり下がつたりする。是に於て夫婦雑居は御互の
損だと云ふ事が次第に人間に分かつてくる。……」といふやうな事を言つて、今のやうな文明の趨
勢だと、夫婦は別居しなければ納まらないやうになると論じてゐる。同じ『猫』第十一の中で、
苦沙彌がタマス・ナシの本を持ち出して、其所に書いてある「古来の賢哲が女性觀」といふの
を、人人に讀んで聞かせる。――「アリストートル曰く女はどうせ碌でなしなれば、嫁をとるな
ら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きな碌でなしより、小さな碌でなしの方が災少なし」・
「或人問ふ、如何なるか是最大奇跡。賢者答へて曰く、貞婦」・「或人問ふ、妻を娶る何れの時に於
てすべきか。ダイオジニス答へて曰く青年は未だし、老年は既に遅し。」・「ピサゴラス曰く天下
に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女」・「ソクラテスは婦女子を御するは人間の最大
難事と云へり。デモスセニス曰く人若し其敵を苦しめんとせば、わが女を敵に與ふるより策の得
たるはあらず。家庭の風波に日となく夜となく彼を困憊起つ能はざるに至らしむを得ればなり
と。セネカは婦女と無學を以て世界に於る二大厄とし、マーカス、オーレリアスは女子は制御し
難き點に於て船舶に似たりと云ひ、プロータスは女子が綺羅を飾るの性癖を以てその天稟の醜を蔽ふ
の陋策に本づくものとせり。ヴレリアス甞て書を其友某におくつて告げて曰く天下に何事も女子
 
 
 
(ゲラ頁 762)
 
の忍んじて為し得ざるものあらず。くは皇天憐を垂れて、君をして彼等の術中に陥らむるな
かれと。彼又曰く女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや、避くべからざる苦しみにあらずや、必然の
害にあらずや、自然の誘惑にあらずや、蜜に似たる毒にあらずや。もし女子を棄つるが不徳なら
ば、彼等を棄てざるは一層の呵責と云はざる可からず。」――勿論漱石の全部がかういふ婦人觀
や結婚觀を懐いてゐたのでない事は、確實である。然し漱石の一部に、是と響きを合せるものが
あつた事は、争はれない。現に明冶四十年(一九〇七)七月二十三日漱石は野間眞網に宛てて、「夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす。君の夫婦が親しけ〈れ〉ば原則に叶ふ親
しからざれば常態に合すいづれにしても外聞わるい事にあらず/……/細君は始めが大事也。
氣をつけて御し玉へ。女程いやなものはなし。」と言つてゐる。
 
 勿論かういふ考へ方が、『行人』を書くまで、そのままの形で、漱石の頭の中に動いてゐたかど
うかは、疑問である。少くとも漱石は『三四郎』ででも『それから』ででも『門』ででも『彼岸
過迄』ででも、全然違つた方面から、女を取り扱つてゐる。殊に『彼岸過迄』に至つては、男の
醜さと女の美しさを對照的に取り扱つて、言はば女の方に團扇を揚げさへもしてゐる。従つて
漱石女性觀もしくは夫婦觀は、明冶四十年(一九〇七)の『虞美人草』前後とは、随分變つて來
てゐると考へる方が、遙に正しいらしく思はれるのであるが、然しその根本に於いて漱石の考へ
 
 
(手入れ 762)
 
の忍ん為し得ざるものあらず。願はくは皇天憐を垂れて、君をして彼等の術中に陥らむるな
かれと。彼又曰く女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや、避くべからざる苦しみにあらずや、必然の
害にあらずや、自然の誘惑にあらずや、蜜に似たる毒にあらずや。もし女子を棄つるが不徳なら
ば、彼等を棄てざるは一層の呵責と云はざる可からず。」――勿論漱石の全部がかういふ婦人觀
や結婚觀を懐いてゐたのでない事は、確實である。然し漱石の一部に、是と響きを合せるものが
あつた事は、争はれない。現に明冶四十年(一九〇七)七月二十三日漱石は野間眞網に宛てて、「夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす。君の夫婦が親しけ〈れ〉ば原則に叶ふ親
しからざれば常態に合すいづれにしても外聞わるい事にあらず/……/細君は始めが大事也。
氣をつけて御し玉へ。女程いやなものはなし。」と言つてゐる。
 
 勿論かういふ考へ方が、『行人』を書くまで、そのままの形で、漱石の頭の中に動いてゐたかど
うかは、疑問であつた。少くとも漱石は『三四郎』ででも『それから』ででも『門』ででも『彼岸
過迄』ででも、全然違つた方面から、女を取り扱つてゐる。殊に『彼岸過迄』に至つては、男の
醜さと女の美しさを對照的に取り扱つて、「恐れない女と恐れる男」といふ言葉を作つてさへもゐる。従つて
漱石當時の女性觀もしくは夫婦觀は、明冶四十年(一九〇七)の『虞美人草』前後とは、随分變つて來
てゐると考へる方が、遙に正しいらしく思はれる。然しその根本に於いて漱石の考へ
 
 
 
(ゲラ頁 763)
 
方は、やはり以前のやうに、ペシミスティックなものだつたやうに思はれる。ただそのペシミステ
ィックな考へ方が、異性だけでなく、同性に對しても、特に自分自身に對して最も濃厚に現はれる
爲に、以前ほど際だつて、女性憎悪の色彩を帯びる事が少くなつた相違があるのみである。
 
 『行人』の一郎は、Hさんが言つてゐるやうに、自分がかうと思つた針金の樣に際どい線の上
を渡つて生活の?を進め、相手も同じ際どい針金の上を踏み外さずに進んで來る事を要求する
人間であった。然も二郎に從へば、一郎の妻のお直は、「決して温かい女ではなかつた」が、然し
「相手から熱を與へると、温め得る女であ」り、また「持つて生れた天然の愛嬌のない代りには、
此方の手加減で随分愛嬌を搾り出す事の出來る女であつた。」とあるやうに、此方から「熱を與
へ」もしくは「手加減」を加へるのでないと、「温め」る事も「愛嬌を搾り出す事」も出來ない種
類の女であつた。生憎一郎は「己は自分の子供を綾成す事が出來ないばかりぢやない。自分の父
や母でさへ綾成す技巧を持つてゐない。それ所か肝心のわが妻さへ何うしたら綾成せるか未だに
分別が付かないんだ。此年になる迄學門をした御蔭で、そんな技巧は覺える餘暇がなかつた。二
郎、ある技巧は、人生を幸福にする爲に、何うしても必要と見えるね。」と言つてゐるほど、自
然のままに成長した人間であつた。その上「手加減」をしたり「綾成」したりするといふ事は、
自分の立つてゐるレベルから、一段も二段も低いレベルの方へ、自分から下りて行くといふ事で
 
 
(手入れ 763)
 
方は、以前と同じやうに、ペシミスティックなものだつた。ただそのペシミステ
ィックな考へ方が、異性だけでなく、同性に對しても、特に自分自身に對して最も濃厚に現はれる
爲に、以前ほど際だつて、女性憎悪の色彩を帯びる事が少くなつた相違があるのみである。
 
 『行人』の一郎は、Hさんが言つてゐるやうに、自分がかうと思つた針金の樣に際どい線の上
を渡つて生活の?を進め、相手も同じ際どい針金の上を踏み外さずに進んで來る事を要求する
然も二郎に從へば、一郎の妻のお直は、「決して温かい女ではなかつた」が、然し
「相手から熱を與へると、温め得る女であ」り、また「持つて生れた天然の愛嬌のない代りには、
此方の手加減で随分愛嬌を搾り出す事の出來る女であつた。」とあるやうに、此方から「熱を與
へ」もしくは「手加減」を加へるのでないと、「温め」る事も「愛嬌を搾り出す事」も出來ない種
類の女なのである。生憎一郎は「己は自分の子供を綾成す事が出來ないばかりぢやない。自分の父
や母でさへ綾成す技巧を持つてゐない。それ所か肝心のわが妻さへ何うしたら綾成せるか未だに
分別が付かないんだ。此年になる迄學門をした御蔭で、そんな技巧は覺える餘暇がなかつた。二
郎、ある技巧は、人生を幸福にする爲に、何うしても必要と見える」と言つてゐるほど、人間としては、自
然のままに成長して來た人間であつた。その上「手加減」をしたり「綾成」したりするといふ事は、
自分の立つてゐるレベルから、一段も二段も低いレベルの方へ、自分から下りて行くといふ事で
 
 
 
(ゲラ頁 764)
 
ある。その事は一郎にとつて、倫理的にも知的にも、到底堪へ得られる事ではなかつた。一郎は
「此年になる迄學門をした御蔭で、そんな技巧は覺える餘暇がなかつた」といふが、然し事實は
一郎は、假令「餘暇」があつたとしても、「そんな技巧」を覺える事を、潔しとしなかつたに違ひ
ないのである。一郎から言へば、夫婦の關係は、さういふ「技巧」を用ひるのでなければ「幸
福」になれないといふやうな、そんな不自然な關係であるべきではなかつた。美的にも知的にも
倫理的にも、レベルの低い所に立つてゐる者が、素直に、謙虚に、レベルの高い所に立つてゐる
者のへ、渾身の勇を揮つて、高まらうとするのが當然であつた。
 
 然しお直は、一郎と同じレベルの上に立たうと努力しないのみならず、冷淡に構へて、一郎の
世界を理解しようとさへもしない。のみならずお直は、二郎から「兄さんに丈はもう少し氣を付
けて親切にして上げて下さい」と言はれても、或は「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。是で
も出來る丈の事は兄さんに為て上てる積よ。……」と答へたり、或は「……妾馬鹿で氣が付かな
いから、みんなから冷淡と思はれてゐるかも知れないけれど、是で全く出來る丈の事を兄さんに
對してしてゐる氣なんですもの。――妾や本當に腑抜けなのよ。ことに近頃は魂の抜殻になつちま
つたんだから」と言つたり、或は「妾のやうな魂の抜殻はさぞ兄さんには御氣に入らないでせう。
然し私は是で滿足です。是で澤山です。兄さんについて今迄何の不足を誰にも云つた事はない積
 
 
(手入れ 764)
 
ある。その事は一郎にとつて、倫理的にも知的にも、到底堪へられる事ではなかつた。一郎は
「此年になる迄學門をした御蔭で、そんな技巧は覺える餘暇がなかつた」といふが、然し事實は
一郎は、假令「餘暇」があつたとしても、「そんな技巧」を覺える事を、潔しとしなかつたに違ひ
ないのである。一郎から言へば、夫婦の關係は、さういふ「技巧」を用ひるのでなければ「幸
福」になれないといふやうな、そんな不合理な關係であるべき筈ではなかつた。美的にも知的にも
倫理的にも、レベルの低い所に立つてゐる者が、素直に、謙虚に、レベルの高い所に立つてゐる
者のへ、渾身の勇を揮つて、高まらうとするのが當然であつた。
 
 然しお直は、一郎と同じレベルの上に立たうと努力しないのみならず、冷淡に構へて、一郎の
世界を理解しようとさへもしない。のみならずお直は、自分でいつのまにか鍛え上げた「牢乎たる個性」に従つて、一郎の思はくなどには頓著なく、自分のしたいままの事をどしどし實行して行くのである。お直は、二郎から「兄さんに丈はもう少し氣を付
けて親切にして上げて下さい」と言はれても、或は「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。是で
も出來る丈の事は兄さんに為て上てる積よ。……」と答へたり、或は「……妾馬鹿で氣が付かな
いから、みんなから冷淡と思はれてゐるかも知れないけれど、是で全く出來る丈の事を兄さんに
對してしてゐる氣なんですもの。――妾や本當に腑抜けなのよ。ことに近頃は魂の抜殻になつちま
つたんだから」と言つたり、或は「妾のやうな魂の抜殻はさぞ兄さんには御氣に入らないでせう。
然し私は是で滿足です。是で澤山です。兄さんについて今迄何の不足を誰にも云つた事はない積
 
 
(新書版)
 
ある。その事は一郎にとつて、倫理的にも知的にも、到底堪へられる事ではなかつた。既に漱石は明冶三十六年(一九〇三)六月十四日管虎雄宛の手紙の中で「大學の講義も大得意ダガワカラナイソウダ。アンナ講義ヲツヾケルノハ生徒ニ氣ノ毒ダ。トイツテ生徒ニ得ノ行クヨウナコトハ教エルノガイヤダ」言つてゐるが、その点で一郎は当時の漱石と正に同じ考へ方を持つている。一郎は
「此年になる迄學門をした御蔭で、そんな技巧は覺える餘暇がなかつた」といふが、然し事實は
一郎は、假令「餘暇」があつたとしても、「そんな技巧」を覺える事を、潔しとしなかつたに違ひ
ないのである。一郎から言へば、夫婦の關係は、さういふ「技巧」を用ひるのでなければ「幸
福」になれないといふやうな、そんな不合理な關係であるべき筈ではなかつた。美的にも知的にも
倫理的にも、レベルの低い所に立つてゐる者が、素直に、謙虚に、レベルの高い所に立つてゐる
者のへ、渾身の勇を揮つて、高まらうとするのが當然であつた。
 
 然しお直は、一郎と同じレベルの上に立たうと努力しないのみならず、冷淡に構へて、一郎の
世界を理解しようとさへもしない。のみならずお直は、自分でいつのまにか鍛え上げた「牢乎たる個性」に従つて、一郎の思はくなどには頓著なく、自分のしたいままの事をどしどし實行して行くのである。お直は、二郎から「兄さんに丈はもう少し氣を付
けて親切にして上げて下さい」と言はれても、或は「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。是で
も出來る丈の事は兄さんに為て上てる積よ。……」と答へたり、或は「……妾馬鹿で氣が付かな
いから、みんなから冷淡と思はれてゐるかも知れないけれど、是で全く出來る丈の事を兄さんに
對してしてゐる氣なんですもの。――妾や本當に腑抜けなのよ。ことに近頃は魂の抜殻になつちま
つたんだから」と言つたり、或は「妾のやうな魂の抜殻はさぞ兄さんには御氣に入らないでせう。
然し私は是で滿足です。是で澤山です。兄さんについて今迄何の不足を誰にも云つた事はない積
 
 
 
(ゲラ頁 765)
 
です。其位の事は二郎さんも大抵見てゐて解りさうなもんだのに……」と言つたりするやうな、
端から見ればちつともさう見えないのにも拘はらず、自分は「是で全く出來る丈の事を」してゐ
ると信じ、自分が是で滿足してゐるのだから、相手も是で満足して然るべきであると考へ、その
意味で反省する事を知らない女ででもあつた。従つてお直には、なぜ自分の所天が機嫌が惡いの
かが、分からない。恐らくお直は、所天が機嫌が惡いのは、ただ自分が所天の氣に入らない――
例へば、相性が惡くて氣に入らないのだ位にしか考へず、従つて所天の氣むづかしさが愈昂じて、
母親やお重までが、どうもこのごろは少し變だと思ふやうになつても、お直は二郎に向つて、「男
は厭になりさへすれば二郎さん見たいに何處へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませ
んから。妾なんか丁度親の手で植付けられた鉢植えのやうなもので一遍植られたが最後、誰か來て
動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝としてゐる丈です。立枯になる迄凝としてゐ
るより外に仕方がないんですもの」と言つて、自分の薄命を嘆くより外の事は、――例へば愛の鍵
をもつて所天の胸の中から愛を取り出し、それに浴する事によつて所天にも自分にも朗らかな世
界を用意しようとするやうな、そんな積極的な事を試みようなどとは、夢にも思はないのである。
さうしてお直は、ただ「凝としてゐ」た。辛抱強く「立枯になるまで凝としてゐ」た。それが二郎
には、「彼女は男子さへ超越する事の出來ないあるものを嫁に來た其日から既に超越してゐた。或
 
 
(手入れ 765)
 
です。其位の事は二郎さんも大抵見てゐて解りさうなもんだのに……」と言つたりして、
端から見ればちつともさう見えないにも拘はらず、自分は「是で全く出來る丈の事を」してゐ
ると信じ、自分が是で滿足してゐる以上、相手も是で満足して然るべきであると考へ、それ以上ちつとも反省して見ようともしなかつた。従つてお直には、なぜ自分の所天が機嫌が惡いの
かが、分からないのである。恐らくお直は、所天が機嫌が惡いのは、ただ自分が所天の氣に入らない――
世俗の所謂相性が惡くて氣に入らないのだ位にしか考へてゐないのに違ひなかつた。従つて所天の氣むづかしさが愈昂じて、
母親やお重までが、どうもこのごろは少し變だと思ふやうになつても、お直は二郎に向つて、「男
は厭になりさへすれば二郎さん見たいに何處へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませ
んから。妾なんか丁度親の手で植付けられた鉢植えのやうなもので一遍植られたが最後、誰か來て
動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝としてゐる丈です。立枯になる迄凝としてゐ
るより外に仕方がないんですもの」と言つて、自分の薄命を嘆くより外の事は、――例へば愛の鍵
をもつて所天の胸の中から愛を取り出し、それに浴する事によつて所天にも自分にも朗らかな世
界を用意しようとするやうな、そんな積極的な事を試みようなどとは、夢にも思はないのである。
さうしてお直は、ただ「凝としてゐ」た。辛抱強く「立枯になるまで凝としてゐ」た。それが二郎
には、「彼女は男子さへ超越する事の出來ないあるものを嫁に來た其日から既に超越してゐた。或
 
 
 
(ゲラ頁 766)
 
は彼女には始めから超越すべき壁もなかつた。始めから囚はれない自由な女であつた。彼女
の今迄の行動は何物にも拘泥しない天眞の發現に過ぎなかつた。或時は又彼女が凡てを胸のう
ちにみ込んで、容易に己を露出しない所謂しつかりものゝ如く自分の眼に映じた。さうした意
味から見ると、彼女は有り觸れたしつかりものの域を遙に通り越してゐた。あの落付、あの品位、
あの寡黙、誰が評しても彼女はしつかりし過ぎたものに違ひなかつた。驚くべく圖々しいもの
あつた。或刹那には彼女は忍耐の権化の如く、自分の前に立つた。さうして其忍耐には苦痛の
さへ認められない氣高さが潜んでゐた。彼女は眉をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代り
に端然と座つた。恰も其座つてゐる席の下からわが足の腐れるのを待つかの如くに。要するに彼
女の忍耐は、忍耐といふ意味を通り越して、殆んど彼女の自然に近い或物であつた。」といふ風
にも見えるのである。
 
 一郎はHさんと一緒に旅に出て、旅先きで、自分がお直に手を當てた時の事を話し、「一度打つ
ても落着いてゐる。二度打つても落着いてゐる。三度目には抵抗するだらうと思つたが、矢つ張
り逆らはない。僕が打てば打つほど向はレデーらしくなる。そのため僕は益無頼漢扱ひにされな
くては濟まなくなる。僕は自分の人格の堕落を證明するために、怒を小羊の上に洩らすと同じ事
だ。夫の怒を利用して、自分の優越に誇らうとする相手は殘酷ぢやないか。君、女は腕力に訴へ
 
 
(手入れ 766)
 
は彼女には始めから超越すべき壁もなかつた。始めから囚はれない自由な女であつた。彼女
の今迄の行動は何物にも拘泥しない天眞の發現に過ぎなかつた。或時は又彼女が凡てを胸のう
ちにみ込んで、容易に己を露出しない所謂しつかりものゝ如く自分の眼に映じた。さうした意
味から見ると、彼女は有り觸れたしつかりものゝ域を遙に通り越してゐた。あの落付、あの品位、
あの寡黙、誰が評しても彼女はしつかりし過ぎたものに違ひなかつた。驚くべく圖々しいものでも
あつた。或刹那には彼女は忍耐の権化の如く、自分の前に立つた。さうして其忍耐には苦痛の
さへ認められない氣高さが潜んでゐた。彼女は眉をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代り
に端然と座つた。恰も其座つてゐる席の下からわが足の腐れるのを待つかの如くに。要するに彼
女の忍耐は、忍耐といふ意味を通り越して、殆んど彼女の自然に近い或物であつた。」といふ風
に、いろいろに見えるのである。一郎も恐らくお直に對して、二郎のやうに感じ、どれがお直の本體
か分からない氣がしてゐたに相違ない。
 
 一郎はHさんと一緒に旅に出て、旅先きで、自分がお直に手を當てた時の事を話し、「一度打つ
ても落着いてゐる。二度打つても落着いてゐる。三度目には抵抗するだらうと思つたが、矢つ張
り逆らはない。僕が打てば打つほど向はレデーらしくなる。そのために僕は益無頼漢扱ひにされな
くては濟まなくなる。僕は自分の人格の堕落を證明するために、怒を小羊の上に洩らすと同じ事
だ。夫の怒を利用して、自分の優越に誇らうとする相手は殘酷ぢやないか。君、女は腕力に訴へ
 
 
 
(ゲラ頁 767)
 
る男より遙に殘酷なものだよ。僕は何故女が僕に打たれた時、起つて抵抗して呉れなかつた〔か〕
と思ふ。抵抗しないでも好いから、何故一言でも云ひ争つて呉れなかつたと思ふ。」 と言つてゐ
る。一郎はこの場合、自分の力ではどうする事も出來ないもの、自分の頭ではどう理解する事も
出來ないもの、何か鐵の扉のやうなものに突き當つた氣がしたに違ひないが、實はこの「鐵の
扉」こそ、すべての場合に一郎が突き當り、さうして跳ね返され、それが繰り返されて、一郎を
狂氣の如くにいら立たせるものに外ならなかつた。一郎は苦しんで苦しんで苦しみ抜いた揚句、
どうにもその苦しさの遣り場がなくなつて、お直に手を當てる。手を當てるとともに一郎は、自
分で自分の人格の堕落に氣がついて、更に苦苦しい心持ちを經驗する。然るにお直は泰然として、
その拳を受ける。お直が泰然としてゐればゐるほど、一郎は、自分をして相手に手を當てしめる
に至つたものは相手であるにも拘はらず、即ち非はお直にあるにも拘はらず、反つて非は自分に
あると思はなければゐられなくなる、現にその證據を自分で見てゐる事が、どう考へても堪らな
いのである。然もそれらのあらゆる苦苦しい心持ちを經驗させるものは、所詮お直に外ならないの
だから、一郎は自然お直を、恐るべき且つ憎むべき存在と考へない譯に行かなかつた。さうして
一郎は、「向ふでわざと考へさせるやうに仕向けて來るんだ。己の考へ慣れた頭を逆に利用して。
何うしても馬鹿にさせて呉れないんだ」と言ひ、もしくは「おれが靈も魂も所謂スピリトも
 
 
(手入れ 767)
 
る男より遙に殘酷なものだよ。僕は何故女が僕に打たれた時、起つて抵抗して呉れなかつた〔か〕
と思ふ。抵抗しないでも好いから、何故一言でも云ひ争つて呉れなかつたと思ふ。」 と言つてゐ
る。一郎はこの場合、自分の頭ではどう理解する事も出來ないもの、自分の力ではどうする事も出來ないもの、何か鐵の扉のやうなものに突き當つた氣がしたに違ひない。然もこの「鐵の
扉」こそ、すべての場合に、最後に一郎が突き當り、さうして跳ね返され、それが繰り返されて、一郎を
狂氣の如くにいら立たせるもの――お直の野獸性、迷亭の言葉を借りれば、道理ではどうしやうもない、お直の「牢乎たる個性」 であるに外ならなかつた。一郎はお直の道理に戻つた言動に、苦し苦しんだ揚句、
どうにもその苦しさの遣り場がなくなつて、お直に手を當てる。手を當てるとともに一郎は、自
分で自分の人格の堕落に氣がついて、更に苦苦しい心持ちを經驗する。然るにお直は泰然として、
その拳を受ける。お直が泰然としてゐればゐるほど、一郎は、自分をして相手に手を當てしめる
に至つたものは相手であるにも拘はらず、即ち非はお直にあるにも拘はらず、反つて非は自分に
あると思はなければゐられなくなる。現にその證據を自分で見てゐる事が、どう考へても堪らな
いのである。然もそれらのあらゆる苦苦しい心持ちを經驗させるものは、所詮お直に外ならないの
だから、一郎は自然お直を、恐るべき且つ憎むべき存在と考へない譯に行かなかつた。さうして
一郎は、「向ふでわざと考へさせるやうに仕向けて來るんだ。己の考へ慣れた頭を逆に利用して。
何うしても馬鹿にさせて呉れないんだ」と言ひ、もしくは「おれが靈も魂も所謂スピリトも
 
 
 
(ゲラ頁 768)
 
まない女と結婚してゐる事丈は慥か」と言はない譯に行かなかつた。
 
 勿論女には「靈も魂も所謂スピリトも」なんにもない、女の持つているものは肉體だけであ
るといふ味方も、成立ち得ない事はない。然し「人間」を尊重し、自己を尊重する一郎は、女を、
お直を、さういふ動物のやうなものとして見る事を欲しなかつた。欲しないといふよりも、出來
なかつた。女を、お直を、動物のやうなものとして見るといふ事は、所詮男を、自分を、動物の
やうなものとして見るといふ事である。それは漱石から言へば、人間に對する大きな冒?であつ
た。一郎が「自分が鋭敏な丈に、自分の斯うと思つた針金の樣に際どい線の上を渡つて生活の?
を進めて行」く代り「相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで來て呉れなければ我
慢が出來ないといふのも、所詮は一郎が相手の「人間」を、自分の「人間」を尊重する如くに、
尊重し、相手の中に自分と同じやうに理非を辨へ、正邪を分ち、曲直を知り、美醜を心得てゐる
ものがあるといふ事を、豫想してゐるからであるに外ならない。然も相手の「人間」は、生きて
ゐるのか死んでいるのか、分からないのである。「人間」としてさういふ反應をする筈がない
も拘はらず、お直は、一郎から言つて、思議すべからざる反應を示すのである。それだから一郎
は、「考へ慣れた頭」で考へて考へて、いらいらし、結局は死か宗教か狂氣か、三つのうちの一つ
を選まなければならない窮所に追ひ詰められるのである。
 
 
(手入れ 768)
 
まない女と結婚してゐる事丈は」と言はない譯に行かなかつた。
 
 勿論女には「靈も魂も所謂スピリトも」なんにもない、女の持つているものは肉體だけであ
るといふ味方も、成立ち得ない事はない。然し「人間」を尊重し、自己を尊重する一郎は、女を、
お直を、さういふ動物のやうなものとして見る事を欲しなかつた。欲しないといふよりも、出來
なかつた。女を、お直を、動物のやうなものとして見るといふ事は、所詮男を、自分を、動物の
やうなものとして見るといふ事である。それは漱石から言へば、人間に對する大きな冒?であつ
た。一郎が「自分が鋭敏な丈に、自分の斯うと思つた針金の樣に際どい線の上を渡つて生活の?
を進めて行」く代り「相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで來て呉れなければ我
慢が出來ないといふのも、所詮は一郎が相手の「人間」を、自分の「人間」を尊重する如くに、
尊重し、相手の中に自分と同じやうに理非を辨へ、正邪を分ち、曲直を知り、美醜を心得てゐる
ものがあるといふ事を、豫想してゐるからである。然るに相手の「人間」は、生きて
ゐるのか死んでいるのか、分からないほど、「人間」らしい振舞を示さないのみならず、「人間」としてはさういふ反應を示す筈がないやうな、思議すべからざる反應を示すのである。それだから一郎
は、「考へ慣れた頭」で考へて考へて、いらいらし、結局は死か宗教か狂氣か、三つのうちの一つ
を選まなければならない窮所に追ひ詰められる。
 
 
(新書版 768)
 
まない女と結婚してゐる事丈は」と言はない譯に行かなかつた。
 
 勿論女には「靈も魂も所謂スピリトも」なんにもない、女の持つているものは肉體だけであ
るといふ味方も、成立ち得ない事はない。然し「人間」を尊重し、自己を尊重する一郎は、女を、
お直を、さういふ動物のやうなものとして見る事を欲しなかつた。欲しないといふよりも、出來
なかつた。女を、お直を、動物のやうなものとして見るといふ事は、所詮男を、自分を、動物の
やうなものとして見るといふ事である。それは漱石から言へば、人間に對する大きな冒?であつ
た。一郎が「自分が鋭敏な丈に、自分の斯うと思つた針金の樣に際どい線の上を渡つて生活の?
を進めて行」く代り「相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで來て呉れなければ我
慢が出來ないといふのも、所詮は一郎が相手の「人間」を、自分の「人間」を尊重する如くに、
尊重し、相手の中に自分と同じやうに理非を辨へ、正邪を分ち、曲直を知り、美醜を心得てゐる
ものがあるといふ事を、豫想してゐるからである。然るに相手の「人間」は、生きて
ゐるのか死んでいるのか、道理といふものが分かつてゐるのか分かつてゐないのか、全然見當がつかないほど、「人間」らしい振舞を示さないのみならず、「人間」としてはさういふ反應を示す筈がないやうな、思議すべからざる反應を示すのである。それだから一郎
は、「考へ慣れた頭」で考へて考へて、いらいらし、結局は死か宗教か狂氣か、三つのうちの一つ
を選まなければならない窮所に追ひ詰められるのである。
 
 
 
(ゲラ頁 769)
 
 然し漱石は所に來て、一郎の為に一轉機を用意した。さうして漱石は一郎がこの道をあるく
限り、死にも狂氣にも陥る必要がない事を暗指しようとした。是は宗教とは言ひ得られないのか
も知れなかつたが、少くともそれに通じる筈の道――慈憐をもつて他人を包まうとする道である。
相手を許さうとする道である。一郎はHさんに、「何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫
のために邪になるのだ。さういふ僕が既に僕の妻を何の位惡くしたか分らない。自分が惡くした
妻から、幸福を求めるのは押が強過ぎるぢやないか。幸福は嫁に行つて天眞を損はれた女からは
要求出來るものぢやないよ」と言ふ。――然しこの一郎の言葉は、相手を許す言葉であつたには
違ひないが、それは何を意味するのであるか。この言葉によれば、一郎がお直をスポイルした
いふだけではないのである。「何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になる
のだ」といふのである。是は何故であるか。是には然し、漱石の説明がない。ただこれに似た
言葉を漱石は、既に『虞美人草』の甲野さんに言はせてゐる。甲野さんが糸子に向かつて、「あなた
は夫で結構だ。動くと變ります。動いてはいけない」・「えゝ、戀をすると變ります」・「嫁に行く
と變ります」・「夫で結構だ。嫁に行くのは勿體ない」などと言つてゐるのが、それである。「戀
をすると變」るといふ事が、戀をする事によつて人間が私の塊になるといふ事を意味するもの
ならば、漱行は既にその事を『彼岸過迄』の須永に於いても、『心』の先生に於いても描き出して
 
 
(手入れ 769)
 
然し漱石は最後の窮所に來て、一郎の為に一轉機を用意した。さうして漱石は一郎がこの道をあるく
限り、死にも狂氣にも陥る必要がない事を暗指しようとした。是は宗教とは言ひ得られないのか
も知れなが、少くともそれに通じる筈の道――慈憐をもつて他人を包まうとする道である。
相手を許さうとする道である。一郎はHさんに、「何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫
のために邪になるのだ。さういふ僕が既に僕の妻を何の位惡くしたか分からない。自分が惡くした
妻から、幸福を求めるのは押が強過ぎるぢやないか。幸福は嫁に行つて天眞を損はれた女からは
要求出來るものぢやないよ」と言ふ。是は他人を責める前に、まず自分を責めようとする意味で、一郎がお直に差しのべた、意味の深い、和解の手であつた。――然しこの一郎の述懐は、具體的には、どういふ事を意味するのであるか。是は、一郎がお直をスポイルしたと、
言つているだけではないのである。「何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になる
のだ」と、一郎は言つてゐるのである。是は何故であるか。遺憾な事には、この件に就いて漱石は、それ以上の事を何も言つてゐない。ただこれに似た
言葉を漱石は、嘗て『虞美人草』の甲野さんに言はせてゐる。甲野さんが糸子に向かつて、「あなた
は夫で結構だ。動くと變ります。動いてはいけない」・「えゝ、戀をすると變ります」・「嫁に行く
と變ります」・「夫で結構だ。嫁に行くのは勿體ない」などと言つてゐるのが、それである。「戀
をすると變」るといふ事が、戀をする事によつて人間が私の塊になるといふ事を意味するもの
ならば、漱石は既にその事を『彼岸過迄』の須永に於いても、『心』の先生に於いても描き出して
 
 
 
(ゲラ頁 770)
 
ゐる。然し女が何故に結婚すれば、「何んな人の所へ行かうと」、必ず「夫のために邪になる」の
であるか。是も戀の場合と同じやうに、女がその為め私の塊になるからであるか。
 
 それは私によくは分からない。然し是は或は漱石が、結婚生活に附随する性慾生活をさして
るのではないかとも思はれる。夫婦の間を結びつける性慾の問題は、夫婦關係を理窟では律する
事の出來ない、イルラチオナールなものにする。一郎の場合に即して言へば、一郎とお直との關
係を道理に叶つたものに前に、反つて混沌たるものにする。それをさして一郎は、「何んな人
の所へ行かうと」、結婚すれば女は、必ず「夫のために邪になる」と言つたのではないかといふの
である。漱石は『道草』の中で、夫婦關係が極度に緊張したあと、お住が病氣になる所をかいて
ゐる。健三はそれを氣の毒に思つて愛撫する。愛撫によつて緊張は解かれるが、然し暫くすると、
亦その緊張が始まる。健三とお住との夫婦關係は絶えずその經過の連續であつた。大正五年(一
九一六)四月二十日前後に書かれたらしい日記の中には、「○夫婦相せめぐ 外其侮を防ぐ/○喧
嘩、不快、リパルジョンが自然の偉大な力の前に畏縮すると同時に相手は今迄の相違を忘れて抱
擁してゐる/○喧嘩。細君の病氣を起す。夫の看病。漸々兩者の接近。それが action にあらは
るゝ時。細君はたゞ微笑してカレシングを受く。決して過去に遡つて難詰せず。夫はそれを愛す
ると同時に、何時でも又して遣られたといふ感じになる。」と書いてある。この「自然の偉大な
 
 
(手入れ 770)
 
ゐるのである。然し女が何故に結婚すれば、「何んな人の所へ行かうと」、必ず「夫のために邪になる」の
であるか。是も戀の場合と同じやうに、女がその為め私の塊になるからであるか。私の塊になるとすれば、何故にさうなるのであるか。
 
 それは私によくは分からない。然し是は或は漱石が、結婚生活に附随する性慾生活の事を頭の中に置いて、物を言つて
るのではないかとも思はれる。夫婦の間を結びつける性慾の問題は、夫婦關係を理窟では律する
事の出來ない、イルラチオナールなものにする。一郎の場合に即して言へば、一郎とお直との關
係を道理に叶つたものに前に、反つて混沌たるものにする。その面だけで觸れてゐる限り、お直が一郎の學門にも見識にも人格にも敬意を拂ふ事がなく、ただの男性としてのみ愛するといふ事も、可能である。それをさして一郎は、「何んな人
の所へ行かうと」、結婚すれば女は、必ず「夫のために邪になる」と言つたのではないか。
漱石は『道草』の中で、夫婦關係が極度に緊張したあと、お住が病氣になる所をかいて
ゐる。健三はそれを氣の毒に思つて愛撫する。愛撫によつて緊張は解かれるが、然し暫くすると、
亦その緊張が始まる。健三とお住との夫婦關係は絶えずその經過の連續であつた。然もその經過には性慾の問題が潜んでゐる事を、見遁す譯に行かない。大正五年(一
九一六)、四月二十日前後に書かれたらしい漱石の日記の中には、「○夫婦相せめぐ 外其侮を防ぐ/○喧
嘩、不快、リパルジョンが自然の偉大な力の前に畏縮すると同時に相手は今迄の相違を忘れて抱
擁してゐる/○喧嘩。細君の病氣を起す。夫の看病。漸々兩者の接近。それが action にあらは
るゝ時。細君はたゞ微笑してカレシングを受く。決して過去に遡つて難詰せず。夫はそれを愛す
ると同時に、何時でも又して遣られたといふ感じになる。」と書いてある。この「自然の偉大な
 
 
 
(ゲラ頁 771)
 
力」といふのが、果して性慾と言つてしまつて可いものかどうかは分からない。然し漱石は、そ
の「自然の偉大な力の前に」自分の相手に對する反撥が畏縮して行く事を感ずると同時に、「今迄
の相違を忘れ」て相手を抱擁する事に注意し、相手をカレシングの中に包んで、それを「微笑し
て」受ける相手を「愛すると同時に、何時でも又して遣られたといふ感じになる」事に注意して
ゐるのである。『行人』の中の歸つてから第二十八には、「風呂から上りたてと見えて、蒼味
の注した常の頬に、心持ちの好い程、薄赤い血を引き寄せて、肌理の細かい皮膚に手燭を挑むやう
な柔らかさを見せてゐた」お直が、一郎の不斷著を持ち、芳江の手を引いて、書齋に這入つて來
る場面が描かれる。是は勿論二郎が、「妾が兄に對して是程家庭の夫人らしい愛嬌を見せた例を知
らなかつた。」と言つてゐるやうに、お直にとつて前例のない仕草であり、また同じ二郎が、「此
愛嬌に對して柔げられた兄の氣分が、彼の眼に強く集まつた例も知らなかつた。」と言つてゐる
やうにお直が不斷かういふ「家庭の夫人らしい愛嬌を見せ」てさへゐれば、一郎の氣分はあの
やうに苛苛しないでもむ筈だといふ事を指示する場面であるには違ひなかつたが、然しそれと
ともに此所では、そのお直の愛嬌が「肌理の細かい皮膚に手燭を挑むやうな柔らかさ」に包まれ
てゐたのだといふ事も、見遁がす譯に行かないやうに思ふ。お直を片意地だと感じ、お直を殘酷
だと感じる一郎は、「自然の偉大な力の前に」自分の相手に對する反撥が畏縮して行く事を感じ、
 
 
 
(手入れ 771)
 
力」を直ちに性慾と解釋してしまつて可いものかどうかは分からないが、然し漱石は、そ
の「自然の偉大な力の前に」自分の相手に對する反撥が畏縮して行く事を注意すると同時に、「今迄
の相違を忘れ」て相手を抱擁する事に注意し、相手をカレシングの中に包んで、それを「微笑し
て」受ける相手を「愛すると同時に、何時でも又して遣られたといふ感じになる」事に注意して
ゐるのである。『行人』の中の歸つてから第二十八には、「風呂から上りたてと見えて、蒼味
の注した常の頬に、心持ちの好い程、薄赤い血を引き寄せて、肌理の細かい皮膚に手燭を挑むやう
な柔らかさを見せてゐた」お直が、一郎の不斷著を持ち、芳江の手を引いて、書齋に這入つて來
る場面が描かれる。是は勿論二郎が、「妾が兄に對して是程家庭の夫人らしい愛嬌を見せた例を知
らなかつた。」と言つてゐるやうに、お直にとつて前例のない仕草であり、また同じ二郎が、「此
愛嬌に對して柔げられた兄の氣分が、彼の眼に強く集まつた例も知らなかつた。」と言つてゐる
やうにお直が不斷かういふ「家庭の夫人らしい愛嬌を見せ」てさへゐれば、一郎の氣分はあの
やうに苛苛しないでもむ筈だといふ事を指示する場面であるには違ひなかつたが、然しそれと
ともに此所では、そのお直の愛嬌が「肌理の細かい皮膚に手燭を挑むやうな柔らかさ」に包まれ
てゐたいふ叙述も、無意味につけ加へられてゐるのではないやうに思ふ。お直を片意地だと感じ、お直を殘酷
だと感じる一郎は、「自然の偉大な力の前に」自分の相手に對する反撥が畏縮して行く事を感じ、
 
 
 
(ゲラ頁 772)
 
相手から「手燭を挑」まれたあとでは、きつと相手を「愛すると同時に又して遣られた」と感じ
たのに違ひないのである。然も自分をして「又して遣られた」と感ぜしめる相手は、自分が自分
の意志によつて妻として迎へたお直であつた。そのお直は自分の所へ迎へられて來さへしなかつ
たら、決して自分に「又して遣られた」と感ぜしめなかつた筈である。従つて假令一郎が「又し
て遣られた」と感じたとしても、その「又して遣」る者は一郎自身ではあつてもお直ではなく、
言はばお直は、一郎の所に來たから、一郎からスポイルされ、一郎に「手燭を挑むやうな」事に
なつてしまつたのである。
 
 勿論この事は、漱石があながち性慾を否定してゐる事を意味しない。もし漱石の「自然の偉大
な力」といふ言葉、そのまま性慾を意味するものと解釋して差支ないものならば、漱石は性慾
を否定する前に、是非もない事實として、是を肯定しないまでも、畏敬しようしてゐるかのや
に見える。然人間に性慾の問題がある限り、もしくは夫婦の關係に性慾の問題が随伴する限
り、夫婦の關係は兎角私なしには進行して行く事がないといふ事を、漱石は認めざるを得ないの
である。それだけに夫婦の關係は複雑を極め、道理のみによつては到底解決し切る事が出來ない。
一郎が、自分お直をどの位悪くしたか分らない。そのお直から幸福を求めようとする自分は、
蟲がよすぎるといふ點に氣がついたといふ事は、悲しい認識には違ひなかつたが、然しこの事
 
 
(手入れ 772)
 
相手から「手燭を挑」まれたあとでは、きつと相手を「愛すると同時に又して遣られた」と感じ
たのに違ひないのである。然も自分をして「又して遣られた」と感ぜしめる相手は、自分が自分
の意志によつて妻として迎へたお直であつた。そのお直は自分の所へ迎へられて來さへしなかつ
たら、決して自分に「又して遣られた」と感ぜしめなかつた筈である。従つて假令一郎が「又し
て遣られた」と感じたとしても、その「又して遣」る者は一郎自身ではあつてもお直ではなく、
言はばお直は、一郎の所に來たから、一郎からスポイルされ、一郎に「手燭を挑むやうな」事に
なつてしまつたのである。一郎がさういふ風な考え方をし得る人間であるといふ事は、例へば一郎が、客の前で『景清』に似た女の話をする父の言葉に關連して、性欲に關する反應の上で、男と女との相違を述べる、進化論的な立場に就いて考へて見ても、明白であつた。
 
 勿論この事は、私の忖度に過ぎない。漱石がそれに就いてはつきりした説明を下してゐない以上、それは精確には分からないとするのが、ほんとである。ただ然し漱石が夫婦關係をかういふものだと考えてゐたと假定しても、それは漱石があながち性慾を否定してゐるといふ事を意味するものでない事は、無論である。それどころかもし漱石の「自然の偉大
な力」といふ言葉、そのまま性慾を意味するものと解釋するならば、漱石は性慾
を否定する前に、是非もない事實として、是を畏敬しようとさえもしてゐるかの
なのである。然人間に性慾の問題がある限り、もしくは夫婦の關係に性慾の問題が随伴する限
り、夫婦の關係は兎角私なしには進行して行く事がないといふ事を、漱石は認めざるを得なかつた。
それだけに夫婦の關係は複雑を極め、道理のみによつては到底解決し切る事が出來ない事も、亦認めざるを得なかつた。
一郎が、自分お直をどの位悪くしたか分からない。そのお直から幸福を求めようとする自分は、
蟲がよすぎるといふ點に氣がついたといふ事は、悲しい認識には違ひなかつたが、然しこの事は、
 
 
 
(ゲラ頁 773)
 
一郎にお直を許す心構へが出來た事を示唆する。自分はいいのに、相手が惡いといふのではなく
て、相手も惡いかも知れないが、自分の方がもつと惡いといふ考へ方は、慈憐に充ちた考へ方に
外ならないからである。
 
 
(手入れ 773)
 
に一郎にお直を許さうとする心構へが出來た事を示唆するのみならず、自分が進化論的事實から脱却する事が出來ない、大きな、根本的な事實を認めて、自分と相手とを共通の弱點の上に立てつつ、お直を許さうとする心構えが出來た事を物語るものであつたと、解釈することが出來るのである。
 
 
(新書版 773)
 
單に一郎にお直を許さうとする心構へが出來た事を示唆するのみならず、自分が進化論的事實から脱却する事が出來ない、大きな、根本的な事實を認めて、自分と相手とを共通の弱點の上に立てつつ、お直を許さうとする心構えが出來た事を物語るものであつたと、解釈することが出來るのである。かうして一郎がお直を許した上で、お直を道理が支配する世界へ導いて行くことができたとすれば、一郎とお直とは恐らく今までとは全然違った夫婦關係に立つことができたに違ひない。