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新美南吉の第一童話集『おぢいさんのランプ』の本文研究――転写原稿の問題を中心に (★)
山下 浩
安藤優希
T はじめに
U 他筆の転写原稿は、なぜ、何を元に、誰によって作成されたか、その正確さは?
V 「久助君の話」の転写元と大幅な改稿について
別表「久助君の話」のサブスタンティブな異同箇所、その他
T はじめに
新美南吉(大正二年七月三十日ー昭和十八年三月二十二日)の第一童話集『おぢいさんのランプ』は、奥付「発行所 有光社」によると、昭和十七年十月五日に初版印刷、十日発行(三五〇〇部)、となっている。諸般の事情のきびしかった戦時中の出版物ではあるが、棟方志功による挿絵や装幀の提供を受けて洒落た本に仕上がっている。
収録作品は七点であるが、これらはすでに雑誌・新聞に発表されていた四点と新たに書き下ろされた三点からなっている。具体的には次の通りである。
@「川」 初出・『新児童文化』第一冊(昭和十五年十二月)掲載
A「嘘」 初出・『新児童文化』第三冊(昭和十六年七月)掲載
B「ごんごろ鐘」 書き下ろし(自筆草稿現存)
C「久助君の話」 初出・『哈爾濱日日新聞』(昭和十四年十一月二十八日ー三十日)
D「うた時計」 初出・『少国民の友』(昭和十七年二月)掲載
E「おぢいさんのランプ」 書き下ろし(自筆草稿現存)
F「貧乏な少年の話」 書き下ろし(自筆原稿現存)
南吉は、この童話集の書名を、当初「久助君の話」としたかったようだが、後見人である巽聖歌の提案によって現行のものに変更された経緯がある。たしかに、収録されている七点のうちの三点@、A、Cにおいては久助君が主人公になっており、そのうちの一点Cは同名のタイトルを持つ。しかしこの作品は後述するような紆余曲折を経た本文から成っており、南吉の力の入れようにもかかわらず傑作にはほど遠いできばえである。巽が書名を『おぢいさんのランプ』としたのは適切であった。
南吉は、同書の「昭和十七年九月 半田の生家にて 新美南吉」とある「あとがき」において、不治の病(咽喉結核)により半年後に訪れる死を予感させない明るさで次のように述べている。
はじめて世に出る童話集なので、心のなかでひやひやしてゐます。昨年、良寛(りやうくわん)さんの傳記物語(でんきものがたり)「手毬(てまり)と鉢(はち)の子」を出すときにも、それは私がはじめて書いた本なので、ひやひやしました。しかし、こんどはまたこんどで、別な不安があります。
前の本は、傳記物語でした。つまり、良寛さんといふりつぱなお坊さんがじつさいにゐて、その人の書き殘したものや、その人について書かれたものもいろいろあつて、私はそれらのものを土臺にして書けばよかつたのです。いひかえると、前の本は、良寛さんと私とのふれあひから生まれたのでした。
ところが、この童話集は、まつたく私一人の心から生まれたものです。久助君、兵太郎君、徳一君、大作君逹は、みんな私の心の中の世界に生きてゐるので、私の村にだつてそんな少年逹がじつさいにゐるのではありません。さういふわけで、これは純粋(じゆんすい)な私の創作集(さうさくしふ)ですから、もし少年諸君が、これらの物語を讀んでちつとも面白く思はないならば、それはすつかり私のおちどになつてしまふのです。
南吉は翌年三月に永眠するが、その直後から彼の童話集や全集が立て続けに出ることになる。そしてそれらの本文には異同が目立ち、その異同には主に巽が関わる「改竄」との噂が流れるようになった。しかし昭和五十五年になり、『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房)にも匹敵する大規模な労作、『校定 新美南吉全集』(全十二巻、別巻二巻、大日本図書)が編纂されて、こうした本文上の問題にも一定の決着がはかられることになった。
『校定 新美南吉全集』(以降『校定全集』と略記する)が『おぢいさんのランプ』に収録の七作品を編纂するにあたっては、南吉自身がじかに校正した同単行本版の本文を底本にし、これに従う方針をとっている。これに初出の本文、転写原稿の本文、及びその中に書き込まれた南吉や出版社編集部の手入れの跡を一目瞭然に示す詳細な「異同推敲表」を作成して添付した。『校定全集』におけるこの編纂方針と実践方法は、『おぢいさんのランプ』収録作品を含む第二巻に限ってみてもやや画一的ではあるが、それでもさまざまな観点からの真摯な書誌(学)的記述・解題とあわせて、今日でも充分に使用に耐える全集となっている。
U 他筆の転写原稿は、なぜ、何を元に、誰によって作成されたか、その正確さは?
『校定全集』が、『おぢいさんのランプ』収録作品の編纂に際し、同版の本文を底本にしたことには問題はない。問題があるとすれば、詳細な「異同推敲表」や書誌(学)的記述・解題を備えながらも、そこで得たせっかくの情報を本文決定の基礎・前提となる各版の相互関係や本文推移の解明に活かせていないことである。
特に、『おぢいさんのランプ』の出版に際し作成され印刷に供された、他筆の「転写原稿」については、成立経緯に関する考察が欠如しており、本来ならばこの欠如は『おぢいさんのランプ』作品の本文決定に際しさまざまな支障を来したはずである。
『おぢいさんのランプ』に収録する既発表四作品@、A、C、Dの出版に際し、南吉は、既存の初出誌(紙)ではなく教え子の女学校生らに作成させた転写草稿を印刷原稿として出版社へ送っている(『校定全集』等が@とAを大村ひろ子による転写と特定しているが、この点には疑問があり後述する)。南吉記念館が所蔵する他筆の@、A、C、Dと南吉自筆のFに、出版社編集部による印刷指定の書き込みと共に連続したノンブルが付されているからである。各々、@4ー27、A28ー66、C94ー107、D108ー124、F161ー202、である。南吉記念館には、BとEにもF同様の自筆の草稿が存在するが、これら二点にはノンブルその他出版社編集部による記入はなく、印刷に用いられた形跡はない。詳細は不明であるが、なんらかの事情で印刷用の転写原稿(現存しない)が別に作成されたのであろう。
既発表の作品を単行本にまとめて出版するような場合、すでに活字化されている初出誌(紙)の本文を底本にして版を組むのが、洋の東西を問わず活版印刷の常套である。活字化された本文のリプリント化をはかるのが、そこによほどの不備でもない限り、作者自身にはむろん版を組む印刷者の側にも効率がいいからである。これは日本近代においても、活版印刷術が導入されて以来の常套手段であった。今回の場合は、七点のうちの四点だけが既発表で残りの三点は書き下ろしではあるが、既発表の四点だけでもそうした方が双方共に効率がよかったのではないであろうか。
にもかかわらず『校定全集』において不思議に思われるのは、懇切丁寧な「異同表」や「解題」の中にも、『おぢいさんのランプ』本文の印刷に用いられた転写原稿については、(1)南吉がなぜそうしたものを作成したのか、(2)女学生たちは何を元に転写を行ったのか、(3)女学生たちの転写能力・正確さはどの程度であったのか、といった基本的事項に関しては言及が皆無なことである。
(1)については、出版社が南吉に対してそうした要望を出したとも思いにくい。あるいは南吉側の判断で、既発表作品においても、自筆原稿による書き下ろし三作品とあわせ、「新作」よろしく出版社へ提出するのを気分よしとしたのかもしれない。そうであれば、今とは違い手軽にコピー機が利用できる時代ではなかったので、周囲の女学生に依頼して転写原稿を作成するしか方法がなかったのであろう。南吉にとっては、初出の小さな文字の本文よりも原稿用紙の方が手入れがしやすいというメリットがあったのかもしれない。短編であるので、転写作業自体はそれほど難儀ではなかったといえるかもしれないが、それでも@「川」で四百字詰め原稿用紙二十二枚、A「嘘」では同三十七枚、C「久助君の話」でも同十三枚、D「うた時計」でも同十六枚の長さではあった。
『校定全集』別巻Tに「新美南吉所蔵本目録」が収録されているが、南吉は生前、自分の作品を掲載した初出誌の多くを所蔵したように思われる。しかしそれらが一冊かぎりの貴重な原本であれば、そこへ朱を入れて印刷所へ送り、さらに編集・印刷の原稿として汚されたり紛失されたりする恐れは避けたかったのであろうか。
(2)『おぢいさんのランプ』に収録の四点は、では何から転写されたのであろうか。『校定全集』においては、このあたりへの具体的な言及が、「久助君の話」以外にはなされていない。転写元として一般的に考えられるのは自筆原稿であるが、現在はむろんこの転写原稿が作成された時点においても、自筆原稿はすでに散逸していた可能性がある(初出誌の印刷に用いられて以降、南吉の手元には戻らなかったのであろう)。残るは初出誌(紙)ということになるので、これと転写原稿とを逐一細かく比較してみた。その結果、特にD「うた時計」において、後者が前者『少國民の友』から転写されたことを端的に示す「共通の書き間違い」(common errors)が見つかった。とりわけ、次の箇所がそうである(以降に引用のページ・行は(『校定全集』による)。
155・1 をぢさんの家をまちがへて持つて來たから、
「おじさんの家にある時計を、間違えて持って来てしまった」という意味の箇所であるが、転写原稿は初出のおじさんの家「を」間違えた、という意味不明な誤植を踏襲している。これは、転写原稿が初出を転写しない限り生じにくい誤記である。この部分はその後、南吉による転写原稿上への加筆・訂正によって「で」と訂正されている。
転写原稿はさらに、以下の四カ所において、疑問符の後に句点を重ねた初出誌の誤植を踏襲している。
147・9 「あつたかい?。」
148・4 「…これ何?。」
155・2 「返してくれろつて?。」
9 「えツ、ほんと?。」
読点を句点にした初出誌の誤植を転写原稿が踏襲している箇所も存在し、これは南吉自身の手でその後訂正されている。
146・15 清廉潔白といふのは。何にもわるいことをしないので、
後述するC「久助君の話」を除いて、@「川」、A「嘘」においても、初出誌『新児童文化』から転写された可能性が高いように思われる。「共通の書き間違い」に類するものとしては、「うた時計」の場合ほど決定的でないが、A「嘘」において、初出誌が組みまちがえた地名の漢字を転写原稿が踏襲するような箇所が存在する。南吉自身は、他では正しく「新舞子」と書いているようである。
61・1 新舞古
5 〃
7 〃
62・5 〃
@「川」とA「嘘」の転写原稿においては、転写元云々と同時に議論すべき、不可解な問題が存在する。それは『校定全集』等が、これら二点の転写原稿が共に大村ひろ子により転写されたと自明のごとく言及している点である。確かに、南吉は、『おぢいさんのランプ』の「あとがき」の最後で、「それから私の學校の生徒、太田澄さん、山崎美枝子さん、大村ひろ子さんが原稿(げんかう)の清書をしてくれました」と書いており、全集の編者が大村ひろ子に問い合わせ、彼女から、「川」と「嘘」の二点を自分が転写したとの答えを得た結果のようである。ちなみに、『校定全集』(第二巻、22頁)は、このあたり、次のように記している。
大村ひろ子は「川」「嘘」の浄書をしたとのことだが、「久助君の話」「うた時計」は太田・山崎がそれぞれどちらを担当したかを特定できなかった。また三氏とも「ごんごろ鐘」「おぢいさんのランプ」を浄書した記憶ははっきりしないとのことだった。
しかし先入観なしに「川」と「嘘」を見比べてみれば、これらの転写原稿間には、同一人により転写されたとは考えにくいさまざまな筆癖の違いが認められる。
筆跡は似ていなくもないが、書き方の丁寧さ・筆力において、双方は段違いに違っている。「嘘」の筆跡には活字を読むような緊張感があり、一字一画まで疎かにしない力強さが感じられるが、「川」はその点で曖昧な印象を受ける。「川」においては、以下の(3)で作品の冒頭部分を示すが、誤字や脱字の類すら存在する。仮名の「な」の書き方に注目すると、「嘘」ではほぼ例外なく今流のひらがなの「な」になっているのに対して、「川」では、二、三箇所を除きほとんどが漢字の「奈」に似た変体仮名風の書き方になっている。あるいはひらがなの「と」においても、活字体に近い二筆書きの「嘘」に対して、「川」では、ややくずれて一筆書きになっている。
これらの転写原稿が、『おぢいさんのランプ』の出版のために作成されたとすれば、時間的な差はあまりなかったはずで、そうであれば、これほどの違いが同一人物の書いたものの中に果たして生じるであろうか。
@「川」、A「嘘」両転写原稿は各々別人によって作成された可能性が高いように思われる。従来までの同一人説に固執するのであれば、右にあげたような違いが何故生じたのか、その点を明快に説明する必要があるだろう。半世紀以上も前の話であるので、大村ひろ子の記憶だけに頼るわけにはいくまい。
なお、他の転写原稿、C「久助君の話」とD「うた時計」は筆跡が違っており、「川」と「嘘」の筆跡はこれら二点とも異なる。ということは、南吉の「あとがき」にもかかわらず、転写人は四人いたという可能性が出てくる。
(3)『校定全集』は、『おぢいさんのランプ』版の本文を底本にしてそれに従うだけではなく、転写原稿の成立過程やそれにともなう本文推移の解明にまで考察の幅を広げ、その考察に配慮した本文決定をする必要があった。それは同童話集の本文が転写原稿を底本にしているからであり、南吉が転写原稿へどれほど目を通し手を加えたとしても、同童話集の本文と転写原稿の本文とがダイレクトに関わることに変わりないからである。
南吉は、転写原稿に目を通した際、他の作家が校正ゲラに目を通す場合と同様、転写元、この場合は初出誌の本文、と逐一照合するといった面倒な作業などしてはいまい。所詮は自分の書いた本文であり、自分なりに読み返し、気の赴くままに手を入れて何が悪いか、の気持ちであろう。転写本文に転写元とずれる箇所があっても、作家はそのすべてに気づくとは限らないし、気づいても意味が通ればそれでよしとする場合もある。しかしこうした結果として、本来なら無用であるべき本文異同が、新たに発生してしまうのである。南吉作品の転写本文にそうした本文異同は発生していないであろうか。転写原稿は信頼に足る本文となっているであろうか。
@「川」、A「嘘」、D「うた時計」の転写原稿は初出誌を元にしている可能性が高いので、まずは@「川」の冒頭部分を見てみたい。「川」の初出本文では、「 」で始まる直接話法の行がインデントされていないが、転写原稿では一マス空けて記号が書き込まれている。転写に際し女学生と南吉との間には、基本的な面での打ち合わせがどの程度行われたのであろうか。以下の引用は、初出誌の本文に対して転写原稿で生じた異同を( )の内に示したものである。長さ的には原稿用紙二枚程度である。
四人が川の縁(ふち)(ルビ欠)まで来たとき、今まで默(だま)(ルビ欠)つて從(つ)いて(ついて)来るやうな(様な)風だつた藥屋の子の音次郎君(欠)が、ポケット(ポケツト)から大きな柿を一つ取出してかう云(言)つた。
「川の中に一番長くはいつてゐた者に、これやるよ。」
それを聞いても(聞いた)三人はべつだん(別段)驚かなかつた。默りんぼの藥屋の音次郎君は、奇妙な少年で、時々口を切ると(きると)その時皆で話しあつてゐる事とはまるで別の、變(変)てこなことを云(言)ふのが癖(くせ)(ルビ欠)だつたからである。三人は、何よりもその賞品に注意を向けた。
つややか(つやゝか)な皮をうすく剥(む)(ルビ欠)くと、すぐ水分の多い黍(きび)(ルビ欠)色の果肉(くわにく)(ルビ欠)があらはれて來さうな、形のよい柿である。皆はそれを百〆柿(ひやくめがき)(ルビ欠)といつてゐる。この邊(辺)でとれるうちでは一番大きい、美味い種類である。音次郎君の家の廣い屋敷には、柿や蜜柑や柘榴(ざくろ)(ルビ欠)など、子供の欲しがる果物の木が澤山ある。音次郎君が奇妙な少年であるにもかゝはら(拘ら)ず、友達が音次郎君のところ(處)へ遊びにゆくのは果物が貰へるからだ。
ところで賞品の方は先づ申し分なしとして、川の方はどうであらう。秋も末に近いことだから、水は流れてはゐない。けれどこの川は幅がせまい代りに、赫土(あかつち)(ルビ欠)の川床が深くえぐ(えぐ(、、))られてゐて、冷たい色に澄んだ水が、かなり深く湛(たた)(ルビ欠)へられてゐる。夏、水浴びによく來たから、大體(体)深さの見當が(見當は)つくのである。へそ(へそ( 、 、))の邊(辺)まで來るだろう。
三人はちよつと(一寸)顔を見合せて(見合はせて)、どうしようと目で相談(相淡)したが、すぐ、やつたろかと、やはり(矢張)目で話をまとめた。するともう森醫(医)院の徳一君が、ズボンのバンドをゆるめ始めた。何か仕甲斐(しがひ)(しがひ)のある悪戯(わるさ)(ルビ欠)をするときのやう(様)に、顔が輝いてゐる。ほら吹き(ほ(、)ら(、)ふき)の兵太郎君は、着物だつたので、先づ鞄をはづして(て、)尻まくりし、パンツを脱いだ。久助(きうすけ)(ルビ欠)君も遲れてはならぬと、ズボンを脱いで、緑と黄のまじつた草の上に棄てた。
以上に引用した「川」の転写本文は、初出誌『新児童文化』との間に驚くほど多くの異同を発生させている。転写元になった初出本文に南吉があらかじめ手を入れていた形跡は特にない。これらの異同は、南吉の転写後の点検によっても完全には回復されなかった。聞いても(聞いた)の箇所では、南吉はこの異同を素通りし、『おぢいさんのランプ』及び『校定全集』へ受け継がれている。見當が(見當は)においては、南吉は、これをひらがなで「けんたうは」と直し、これも『おぢいさんのランプ』及び『校定全集』へと受け継がれていく。転写原稿で発生した異同が変更されずに『おぢいさんのランプ』及び『校定全集』にまで続く異同のうち、意味に影響を与えるいわゆるサブスタンティブ(substantive)な異同だけでも次の表の通りである。これらを見て、南吉が目を通しオッケーしたのだから問題はない、と片づけていいであろうか。
『校定全集』の頁・行 |
初出『新児童文化』
|
転写原稿
|
転写原稿上への南吉の加筆 |
転写原稿上への他者の加筆
|
『おぢいさんのランプ』=
『校定全集』 |
7・6
|
聞いても三人は |
聞いた三人は
|
|
|
←
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8・3
|
見當がつく
|
見當はつく
|
|
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けんたうはつく |
12 |
見せつけたい |
見せたい |
|
|
← |
15 |
腹の痛い |
腹が痛い |
|
|
腹がいたい |
11・4
|
三人が寄つていつて、 |
三人は寄つていつて、 |
|
|
←
|
15
|
お陀佛(だぶつ)するのだ |
お陀佛してしまつたのだ |
おだぶつしてしまつたのだ |
|
おだぶつしてしまつたのだ、 |
13・1 |
が心配の |
だが心配の |
|
|
← |
17・2
|
死んだ眞似しとつたら |
死んだ眞似をしとつたら |
死んだまねをしとつたら |
|
←
|
16
|
鳴聲の混(まじ)つたのを
|
啼聲が混つたのを
|
|
|
啼聲がまじつたのを
|
A「嘘」の転写人は、「川」の転写人とは比較にならない忠実さで転写を行っている。「川」よりはるかに長い作品でありながら、右の表にあげたような類の異同は、作品全体を通じてほとんど発生していない。誤字やルビの削除の類は十七カ所余りに存在する。
D「うた時計」にも、すでに示した「共通の書き間違い」のような誤記は存在するものの、「川」ほどの問題点は認められない。
V 「久助君の話」の転写元と大幅な改稿について
A「久助君の話」の転写原稿は、以上の三点とは状況が全く異なる。この短編においては、初出と転写原稿との間に極めて大幅な異同が存在し、後者が前者をそのまま転写した可能性は皆無である。本論末に別表として「久助君の話」各本文間のサブスタンティブな異同表を作成し添付する。
「久助君の話」においては、初出と転写原稿の間ばかりでなく、転写原稿へ南吉が書き入れた改稿もまた大幅で、さらに最終版『おぢいさんのランプ』にもゲラ段階で大きな異同が発生している。「久助君はびつくりした」ではじまる作品の最終部分には、後述するような、作品を変質させる大きな改稿が初出紙『哈爾濱日日新聞』と転写原稿以降の三種の本文との間に存在する。
『校定全集』(二巻、128ー129頁)の解題は、転写原稿の問題に触れている。「『哈爾濱日日新聞』に原稿を送る際に転写したとのことで、そうすれば自筆原稿が南吉の手元に残ったはずだが、その原稿は未発見である」と述べ、さらに「『哈爾濱日日新聞』掲載作品をそのまま写したのではなく、『哈爾濱日日新聞』に送った際の草稿が残っており、それを転写したか、あるいは『哈爾濱日日新聞』掲載作品に南吉がまず加筆し、それを転写したとも考えられる」と、転写元に関して二つの可能性を示唆している。しかしこの二つの可能性はいずれも小さい。
まずは後者の可能性、「『哈爾濱日日新聞』掲載作品に南吉がまず加筆し、それを転写したとも考えられる」についてである。
「久助君の話」初出紙の本文について知らねばならないのは、その掲載部分のみが南吉のスクラップブックに貼付され保存されているという点である。新聞全体の実物は今日ほとんど存在せず、そのため「久助君の話」の肝心の掲載日は『校定全集』の編纂当時不明であった(第二巻、128頁の解題を参照)。その後の研究によって、掲載日は昭和十四年十一月二十八日から三十日の三日間であることが判明した(斎藤寿始子「新美南吉研究資料――『哈爾賓日日新聞』掲載作品について――」『大谷大学真宗総合研究所紀要』、一九九〇年二月、参照)。
『校定全集』が示唆するように、「『哈爾濱日日新聞』掲載作品に南吉がまず加筆し、それを転写したとも考えられる」ということであれば、南吉の手元には、複数の初出紙が存在したことになる。なぜなら、現存する南吉のスクラップブックにそうした加筆は一切認められないからである。しかし新聞という資料の性質上、南吉が現物を二点所持していたとは考えにくく、『おぢいさんのランプ』の出版時に南吉の手元にあった初出紙はおそらくこのスクラップブックの一点に限られていたであろう。その点からこの説を成り立たせるのは困難となる。
前者の可能性、すなわち「『哈爾濱日日新聞』に送った際の草稿が残っており、それを転写した」という点であるが、この可能性もこのままでは成り立ちにくい。
まず、「久助君の話」の発表時期は、『おぢいさんのランプ』収録七作品の中で一番古いということを思い起こさねばならない。この年、すなわち昭和十四年に、南吉は「最後の胡弓ひき」の後で「久助君の話」を書いているが、それは『おぢいさんのランプ』出版時から遡ること三年前の話である。三十歳に満たない生涯を閉じた南吉にとってこの三年は、我々が想像する以上にはるかな「昔」ではなかったか。この間に南吉は「奇跡の年」といわれるほどの充実した時期を迎え、多数の傑作をものにし、作家として一段と脂がのっていた。実際問題、『哈爾濱日日新聞』掲載本文は、最新作に比べて文体その他古めかしい感じを与える。
以下に提示した異同表で別途引用した、「久助君はびつくりした」に始まる作品最終部分の改稿にも注目する必要がある。
『哈爾濱日日新聞』の本文がこの最終部分で述べていたポイントは、あの出来事以来、兵太郎君個人に対する久助君の認識が変わったということである。これに対し、三年後に作成された転写原稿、南吉の加筆、『おぢいさんのランプ』においては、いずれも、久助君の認識が兵太郎君個人から人間一般に対するものに拡大されている。これはすなわち、初出から三年後の『おぢいさんのランプ』出版時点における南吉の認識とみてよく、同一の認識が三年前に、「『哈爾濱日日新聞』に送った際の草稿」本文にも存在したと考えるのは不自然であろう。
では、「久助君の話」の転写原稿は何から転写されたのであろうか。可能性としては、『校定全集』の編者が、「『哈爾濱日日新聞』に原稿を送る際に転写したとのことで、そうすれば自筆原稿が南吉の手元に残ったはずだが、その原稿は未発見である」、と言及しているこの自筆原稿に(そうしたものが存在していたと仮定して)、南吉が改めて大幅な手を入れて、それが転写人へ渡ったという可能性である。
もう一つは、南吉なりに『哈爾濱日日新聞』本文を読み返しながら新たに執筆し直し、これを元に清書の転写原稿を作成させたという可能性である。
いずれの可能性に拠ったにしろ、出来上がった転写原稿に対して、南吉はまたまた大幅且つ大胆な手を加えた。「久助君はびつくりした」に始まる例の最終部分で、二行分ほどの一段落をそっくり削除したり、新段落をなす一行分を追加したりしている。『おぢいさんのランプ』のゲラ段階に至っても、作品の最後に「そしてこれは、久助君にとって、一つの新しい悲しみであった」の一文を追加している。しかしこの短編の終わり方として、この一文の追加は余計であったように思われる。どんな作家にもいえることだが、初出段階の本文を後年になっていじりだすときりがなくなる。南吉もその落とし穴にはまった格好である。作者がどれほどもがき苦しもうとも、その結果、文学的にベストな本文がいつも得られる保証はどこにもない。それ故編者や読者は、こうしたケースにおいてはとりわけ、作者の「最終的意図」なるものに引きずられる必要はない。むしろ、どの段階の本文にも、その段階なりに作者の「最終的な」意図が存在するという認識を持つ必要がある。「久助君の話」においても、転写原稿の段階や久助君の認識を兵太郎君個人に置いたユニークな初出段階にもっと注目してよさそうである。
巽の助言によって「久助君の話」が童話集の書名にならなかったのは、南吉のために本当によかったと改めて思う。巽には、南吉本文の「改竄者」として非難された経緯があるが、このような面からの彼の功績も忘れてはならない。
★ 本論は、山下浩と安藤優希(筑波大学 日本語・日本文化学類学生)による共同研究の産物である。南吉本文の問題に最初に着目したのは安藤であり、山下が担当する「印刷文化論」(比較文化学類、平成十五年度)の受講生としてであった。本論の本文執筆には主に山下があたり、別表等の作成には主に安藤があたったが、両者は渾然一体となっている。本研究に関連するもろもろの書誌学・本文研究の情報については、山下のサイト、
http://www.hybiblio.com を参照されたい。なお、本研究は平成十六年度筑波大学学内プロジェクトの援助を受けている。
謝辞 新美南吉記念館には、資料提供その他さまざまな面で大変お世話になりました。職員の皆様へあつくお礼申し上げます。『校定全集』の編纂に関わった保坂重政氏の著書『新美南吉を編む』(アリス館、二〇〇〇年四月十五日)からは、南吉本文に関して多くの周辺情報を得ることが出来た。
別表(1)「久助君の話」のサブスタンティブな異同箇所
『校定全集』の頁・行 |
初出『哈爾濱
日日新聞』
|
転写原稿
|
転写原稿上への南吉の加筆
|
転写原稿上への他者の加筆
|
『おぢいさんのランプ』=
『校定全集』 |
121・6 |
そのたび |
そのたびに |
|
|
← |
6 |
歩かなければ |
歩かねば |
|
|
← |
7 |
示すや、 |
示すと、 |
|
|
← |
9 |
表に |
そとに |
|
|
← |
9
|
久助君は耳をすました、お宮さんの森の方へ、(誤植) |
久助君はお宮さんの森の方へ耳をすました。 |
|
久助君はお宮の森の方へ耳をすました。
|
←
|
12 |
色よい |
うまい |
|
|
← |
122・1 |
實(じつ)に |
ほんとに |
|
|
← |
5 |
實(じつ)は |
ほんたうは |
|
|
← |
6 |
天氣に |
天氣の日に |
|
|
← |
12
|
昨日こんな鰻(うなぎ)
を |
こんな鰻を
|
|
|
←
|
15 |
彼は |
兵太郎君は |
|
|
← |
18
|
立てゝすゝり
あげる |
たてゝすひあげる |
|
|
たててすひあげる |
123・1
|
兎(と)も角(かく)
|
ところきらはず |
|
|
←
|
12 |
背(はい)後を |
うしろを |
|
|
← |
17 |
返事(へんじ) |
なまへんじ |
|
|
← |
124・4
|
がつかりしたが |
がつかりした。が |
|
|
←
|
125・3 |
黙(だま)つてゐるが |
黙つてゐたが、 |
|
|
← |
14
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なつてしまつた安らかさを感じた |
なつてしまつたことを感じた |
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どうも相手は本氣になつてやつてゐるらしい、久助君の胸(むね)を突(つ)いたが、その力の入れ工合から考(かんが)へてどうも冗談半分の争ひの場合の力の限度を超えてゐる。
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どうも相手は本氣になつてやつてゐるらしい。久助君を下からはねのける時に久助君の胸を突いたが、どうも冗談半分の争ひの場合の力の入れ方とは違つてゐる。
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「入れ方」を「入れかた」に変更。それ以外は、転写原稿に同一。
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後頭をぢかに |
頭をぢかに |
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この世の物音だつた
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この世の物音のやうに感じられた |
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127・7
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その虚に
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もうその虚に
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127・12〜128・4
〈初出『哈爾濱日日新聞』〉
久助君はびつくりした。ほんの一瞬間(しゆん)であつたが、これは兵太郎君ではない、全くの別人であるといふ氣がした。とすぐにやはりこれは兵太郎君であるといふことは解(わか)つたが、ほんの一瞬(しゆん)間であつたあの印象(いんせう)は非常に強かつた。
邊には夕ぐれの薄明がもう漂(た``ゝよ)つてゐた。着物から草のごみを拂(はら)ひ帯(おび)をしめなほすと、てれ臭(くさ)い氣持ちで久(きう)助君は兵太郎君に別れた。失敬(しつけい)ともいはずに。
一人で家へ歸(かへ)る路で、さつきのあの強い印象(いんせう)がまた蘇つて來た。日頃馴(な)れ親しんでゐる兵太郎のつもりで、全然知らない人間と一生懸命(けんめい)に取り組んでゐたのだといふことを思つたあの時の驚き、やがて併(しか)しあれは兵太郎君であるといふ理性(りせい)とあの強い印象(いんせう)とが、溶(と)けあつてゆくのを感(かん)じた。そして新しい兵太郎君が久助君の胸(むね)の中で出來上がつていつた。
それから後久助君は、兵太郎君についてかう考(かんが)へるやうになつた兵太郎君は確(たし)かに以前の兵太郎君だが、あの時、つまり干草の中で取つ組みあひをした時から、別の人間になつてしまつたと。(一四・一〇・一八)
〈転写原稿〉
久助君はびつくりした。じぶんのまへに立つてゐるのは、兵太郎君ではないぢやないか。見たこともない、寂しい顔つきの少年である。兵太郎君だと思ひこんで、こんな知らない少年と、しぶんは、半日くるつてゐたのである。
いつたい、これは誰だらう。
なんだ、やはり兵太郎君ぢやないか。やっぱり相手は、ひごろの仲間の兵太郎君だつたのだ。さうわかつて、久助君はほつとした。
あたりはもううす暗くなつてゐた。着物から草のごみをはらひ、帯をしめなほすと、てれくさいきもちで、久助君は兵太郎君にわかれた。しつけ、ともいはないで。
(一行あき)
それからのち久助君はかう思ふやうになつた。ーーわたしがよく知つてゐる人間でも、ときにはまるで知らない人間になつてしまふことがあるものだと。そして、わたしがよく知つてゐるのがほんたうのその人なのか、わたしの知らないのがほんたうのその人なのか、わかつたもんぢやない、と。
〈転写原稿上への南吉の加筆〉
久助君はびつくりした。久助君のまへに立つてゐるのは、兵太郎君ではなかつた。見たこともない、寂しい(他筆で「さびしい」に変更)顔つきの少年である。
何といふことか。兵太郎君だと思ひこんで、こんな知らない少年と、しぶんは、半日くるつてゐたのである。
久助君は世界がうらがへしになつたやうに感じた。そしてぼけんとしてゐた。
いつたい、これは誰だらう、じぶんが半日くるつてゐたこの見知らぬ少年は。……
なんだ、やはり兵太郎君ぢやないか。やつぱり相手は、ひごろの仲間の兵太郎君だつた。
さうわかつて、久助君はほつとした。
(一行あき)
だが、それからのち久助君はかう思ふやうになつた。ーーわたしがよく知つてゐる人間でも、ときにはまるで知らない人間になつてしまふことがあるものだと。そして、わたしがよく知つてゐるのがほんたうのその人なのか、わたしの知らないのがほんたうのその人なのか、わかつたもんぢやない、と。
〈『おぢいさんのランプ』本文〉
久助君はびつくりした。久助君のまへに立つてゐるのは、兵太郎君ではない、見たこともない、さびしい顔つきの少年である。
何といふことか。兵太郎君だと思ひこんで、こんな知らない少年と、じぶんは、半日くるつてゐたのである。
久助君は世界がうらがへしになつたやうに感じた。そしてぼけんとしてゐた。
いつたい、これは誰だらう。じぶんが半日くるつてゐたこの見知らぬ少年は。……
なんだ、やはり兵太郎君ぢやないか。やつぱり相手は、ひごろの仲間の兵太郎君だつた。 さうわかつて久助君はほつとした。
だが、それからの久助君はかう思ふやうになつた。ーーわたしがよく知つてゐる人間でも、ときにはまるで知らない人間になつてしまふことがあるものだと。そして、わたしがよく知つてゐるのがほんとうのその人なのか、わたしの知らないのがほんとうのその人なのか、わかつたもんぢやない、と。そしてこれは、久助君にとつて、一つの新しい悲しみであつた。
別表(2)『校定全集』「嘘」異同推敲表で修正を要する箇所(修正済を記入)
『校定全集』の頁・行 |
『校定全集』の本文
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初出『新児童文化』
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転写原稿
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南吉の改稿
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他者の改稿
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45・6 |
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あがつて |
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48・8 |
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肖像が |
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16 |
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ぎよろり( ※) |
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51・4 |
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一人で、 |
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52・3 |
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出入りし、 |
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53・ 13 |
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明き盲 |
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56・9
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嘘吐き
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※転写原稿では、原稿用紙の□内に「眼がぎよりと」と書かれ、□外に「ろ」が付け足されている。『校定全集』は南吉が入れたものとしているが、しかしこの「ろ」は南吉の筆跡とは異なるようで、転写人の筆跡の方に似ている。転写原稿に元々付け足されていた可能性が高い。