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平成16年度印刷文化論
第3学期レポート
書籍において消費されているものは本文だけか――表紙・帯と本文の相関関係
比較文化学類2年 200310467 大蔦由芳子
我々が消費しているもの――本文とその側面
現在の日本には1999(平成11)年の時点で、約4400の出版社があり、世界でも有数の出版王国と言われている。電子メディアの急激な成長に紙のメディアの終焉を危惧する声が聞かれるが、我々の身の回りには無数の本が溢れ、書籍、雑誌も次々と発行されているという現状を見る限り、紙メディアが電子メディアに代わるとするならば、まだ当分先のことになりそうである。
ところで、我々が単行本を購入するとき、購入の決定という行動に至るまでにどのような情報を与えられ、消費しているのだろうか。考えつくだけ挙げてみると、
@作品の内容
Aタイトル
B表紙(装丁)
C帯(宣伝)
D作品のジャンル
E作者の評判(前作や受賞歴)
F書評(作品の評判)
などがある。これらはすべて、実際に作品に触れる前に消費者(読者)へ与えることができる情報である。そして消費者の要求に答えることが出来た単行本が購入される。
多くの小説の場合、まず定期刊行物に初出として作品が掲載されてから単行本化される。単行本化される際、ルビを多く振ったり推敲が少々なされたりすることはあるが、基本的には作品の内容にそれほど変化はない。しかし、作品が定期刊行物に掲載されることと単行本として発行されることの間には大きな相違点がある。定期刊行物に掲載された作品は、その定期刊行物を成立させるための作品群の一部として取り扱われるが、対して単行本は、その作品のためだけに、上記に列挙した様々な「もの」や「こと」が形成される。
ということは、我々は単行本を購入する際、「本文」(ストーリー)だけを消費しているわけではなく、本文を取り巻く「情報」を同時に消費している(させられている)と言えるのではないだろうか。
本レポートでは、本文の側面と言える「情報」の内、「表紙」(カバー)と「帯」についての分析を中心に、現在の書籍のあり方や将来の書籍の可能性について考察を進めていく。
尚、本レポートでは、「表紙=カバー」ということで進めていく。
表紙(カバー)――消費者の想像力に訴える宣伝
すべての書籍には表紙がある。その表紙の役割について、恩地孝四郎は次のように定義している。
表紙――cover これは本という個体を家に譬えていってみれば、それは門構えである。この門の様子でここを訪ねる訪客が、まずその家の性格を受取ることになる。但し、門が単に大工まかせのあたりまえのものがあるように、極めて無雑作な特色のないものも少くない。学術書などは殊更に一つの型を頑強に推していたりする。1
表紙は内容の「説明」と、視覚に訴える「印象」である。当たり前のことであるが、表紙は書籍(媒体)に収録された内容(情報)を暗示しているのである。ほんの僅かに表紙を見ただけで、作品の内容や雰囲気が、漠然とでも消費者に想像させられるものがよいということである。
例えば、小川洋子『博士の愛した数式』の表紙は、小学生くらいの少年が水彩で描かれた表紙である。このイラストを作品の「門構え」とすることで、消費者はこの男の子が重要人物なのではと想像することが容易になる。実際この小説は、事故で記憶力を失った老数学者と、彼の世話をすることになった主人公・わたしとわたしの息子とのふれあいを描いた作品であり、表紙の少年は主人公の息子ということである。
また金原ひとみ『蛇にピアス』は、舌の先端が蛇のように分かれた人物が描かれた表紙である。ストーリーにおいてもこの分かれた舌(スプリット・タン)は重要な軸を担っている。
このことからも表紙は、文字という装置を用いない、消費者の想像力に依拠した、消費者に対して極めて自由な発想をさせる宣伝方法だと言えるだろう。
カバーは通常コーティングされます。合成樹脂加工ですね、汚れを防ぐためのものです。紙にもう一枚膜を張って丈夫にするという意味もあるでしょう。表紙を守るためにカバーがかけられ、そのカバーを守るためにまたコーティングされる。2
(カバーの役割は)包装紙的な考え方ですね。書店でほこりをかぶったり、人の手で汚れることから表紙を守る、という目的があった。(中略)それからカバーにはもう一つの目的ができた。書店で目立たせるということです。書店で並ぶことによって広告的な効果を期待する。となると、各出版社はただの包装紙じゃなくて、きれいなものにする、凝ったデザインにする、カバーで競争する、というようになりました。3
表紙は元は汚れ防止という実用的な役割を担っていた。包装紙ならばシンプルなものでもよいはずだが、書籍を保護するという目的から、宣伝の性格が強いものへと変化していった。コーティング加工という過程を踏むことも、包装紙的な役割から離れているためと考えられるだろう。(和田氏は「表紙」と「カバー」という言葉を使い分けているが、現在では表紙=カバーデザインという印象が強いように思われるため、本レポートでは表紙=カバーという立場を取っている。)
作品の顔として、表紙の持つ役割は大きい。
帯――直接的かつ端的な宣伝
イラスト等によって作品を印象づける表紙と違い、帯は文字による宣伝を行うための手段である。大抵、本文から引用された一文が印刷されており、その引用文が作品の軸となっているのである。
モブ・ノリオ『介護入門』の帯には、ラストの場面の一文が引用されている。『俺はいつも《オバアチャン、オバアチャン、オバアチャン》で、この家にいて祖母に向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ。』4『介護入門』は、薬物中毒の主人公が、要介護認定を受けた祖母の世話をするという話だが、この引用はストーリーをたった一文で表現している、と言っても決して過言ではない。
綿矢りさ『蹴りたい背中』の帯にも、同様の効果を持つ引用がされている。『愛しいよりも、いじめたいよりも、もっと乱暴な、この気持ち。』 実は『蹴りたい背中』作中において、これと全く同じ記述はない。しかし、似たような一文はある。『いためつけたい。蹴りたい。愛しさよりも、もっと強い気持ちで。』5全く同じではないが、言わんとしていることは同じである。主人公・ハツが同級生・にな川に寄せる、恋愛でも友情でもない感情がストーリーの主軸を担っている『蹴りたい背中』の宣伝文句として、この引用も効果的であると言えるだろう。
現在、ついていない書籍はないと言えるくらい、帯は当たり前のように書籍に付属されたものであるが、和田誠氏はその帯についてこう述べている。
ぼくが装丁をやり始めたころ、カバーはとっくに当たり前になっていましたが、オビはない方が多かった。当時のオビは、その小説が賞をとったとか、(中略)特に謳いたいことがある時だけかけるものだった。で、オビをかけると、何だか話題の本だという印象を買い手が持ちますから、特に話題性はなくても営業政策上オビをかけると有利になる、という考え方が出てきて、どんどんオビをかけるようになった。結局オビがあるから特別なんだな、と思わせる効果はなくなっちゃったんですね。6
例えば、これは知人の話だが、書籍を古本屋で引き取ってもらおうと持ち込んだところ、表紙も中も汚れはなかったものの、帯を紛失してしまったためにその分買取価格が下がってしまった、という話だった。帯はもはや特別なものではなく、書籍として成立させる要素の一つとなっているため、それが欠けてしまえば「欠陥品」扱いされてしまうのである。
また引用にもあるように、その作品が賞を取った、という情報は今でも有効な宣伝になるため帯に載せられている。阿部和重『グランド・フィナーレ』には芥川賞受賞の旨が帯に記載される。芥川賞・直木賞は、日本の文学賞において最も権力があり、賞を受賞すると書籍の売り上げが一桁違うとまで言われている。通常2−3万部売れればヒットと言われている中、芥川賞・直木賞を受賞すると20−30万部は容易に突破できるという。しかも波及効果も期待でき、今まで受賞作家が書いてきた作品までも売れ始めるのである。
同様に、作品の映画化、ドラマ化の情報も非常に有効で、相当数の売り上げを期待できるということだった。帯に主演俳優の名前やテレビ局、包装時間帯を記載するなど、その作品にプラスになるような情報を、帯は消費者に伝達するのである。
帯の文字による宣伝は、消費者に直接的かつ端的に作品を印象付けることが可能になると言えるであろう。
表紙と帯の関係――売り上げを左右する装丁
表紙と帯とのデザインが大ベストセラーを生んだ、と言われる例を紹介しておく。2004年度に片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』に抜かれるまで、書籍累計売り上げ第一位だった村上春樹『ノルウェイの森』上・下巻である。
『ノルウェイの森』の表紙は、上巻は赤い表紙に濃い緑でタイトルが書かれ、下巻は濃い緑の表紙に赤い文字でタイトルが書かれているというシンプルなものだった。実はこの表紙は村上春樹の自装で、上・下巻二冊が店頭に平積みされると非常に目についたという。(以前は『ノルウェイの森』の文庫本と単行本の表紙は異なっていたのだが、現在文庫本も単行本と同じ表紙になっており、平積みされていると確かに目立つのである。)村上春樹というだけでも十分な宣伝に成りうるのだが、発行所の講談社はクリスマスが近づくと上下に金色の帯をつけた。赤、緑、金でクリスマスカラーとなり、プレゼント本としても売れた、というわけである。
井狩春男氏は『ノルウェイの森』以外にも夏目漱石の作品の表紙についても触れ、『わたせせいぞうのイラストをカバーに採用したら売上げが伸びた。』7とも述べている。
装丁が良くなければ読者は手をのばさない。手を出さなければ、フツー本は売れない。ベストセラーなどとんでもない。装丁を変えたために、売れた例もある。そんなことを村上春樹は、知ってか知らずか。8
表紙(あるいは装丁)が書籍の購入の意思決定に特に重要な部分を占めているとは一概には言い難いが、その本の内容を知らなくとも、表紙の美しさに惹かれたり、帯の引用文に感じるものがあったりするならば、消費者は手を伸ばす。
また、帯はないのだが、表紙を変えて同じ作品を出版している例がある。J.K.ローリング『ハリー・ポッター』シリーズである。イギリスの出版社BLOOMSBULYで出版されている『ハリー・ポッター』シリーズは、表紙を二種類作り「子供バージョン」「大人バージョン」とそれぞれ銘打って出版している。これは『ハリー・ポッター』シリーズが「児童文学」というジャンルに分類されていることが原因で、それでは大人が手に取り辛いということを考慮し、子供向けの表紙と大人向けの表紙を作って出版した。結果、子供や子供のいる家庭向けに限定されがちな児童文学作品の消費者に、子供のいない大人を取り込むことに成功したのである。(ちなみに、子供バージョンと大人バージョンで本文の違いは一切ない。)これは『ハリー・ポッター』という世界的ベストセラーだからできる経費のかけ方かもしれないが、表紙の効果を考える上でも、消費者が限定されがちの児童文学においても、これは非常に参考になる企業戦略ではないだろうか。
逆もまた然りの例として挙げるとするならば綿矢りさ『インストール』であろう。これは河出書房新社主催の文藝賞を最年少で受賞した綿矢りさのデビュー作で、昨年映画化もされた。この書籍は『日本の装丁家106人』の中でも紹介されている泉沢光雄氏デザインの表紙であるが、そこに描かれた女子高生の顔が不気味で手を伸ばしがたい、という記述が綿矢りさ作品の研究本『綿矢りさのしくみ』に見られた。また帯には映画で主演した人気女優のコメントが載っている。新人賞最年少受賞に加え映画化、人気女優の宣伝とくれば、売り上げ50万部を超えることもありうるはずだが、2004年8月の時点で売り上げは約30万部ということだった。(これでも大ベストセラーであるのだが。)
昔から誰もが抱く素朴な疑問に「本は装丁がよければ売れるのか」という問題がある。本来、「本はあくまで内容で買うもの」というのは、いわば当たり前の議論である。だからそのまま短絡的に鵜のみすれば、「装丁など、どうでもよいではないか」ということになる。しかし、書店でお客に本を買ってもらう前提としては、まず、手にとって見てもらわなければならない。だとすれば「見た目に訴える力」も無視できない。9
文学作品の中心にあるのは、まぎれもなく本文である。しかし、それがどんなに優れていようと、本文のみの力では売り上げを伸ばすことは難しくなっている。あるいは、作品が消費され、売り上げも知名度も上がっていくものは、結果的に「優れている」と評価される。その評価をされるためには、やはり書籍を手に取ってもらうことが、評価への第一段階にあろう。
本文を、表紙や帯によって消費者にいかに強く印象づけるか、手に取らせるかによって、売り上げは左右されるのである。購入の意思決定をするのは当然消費者で、作家や出版社には不可侵の領域である。だが、購入の意思決定という段階まで消費者を誘導することは、本文に加え表紙と帯を用いれば十分可能ではないだろうか。
また、前述したように、表紙と帯がなければ完全品として認められないという風潮が根づき始めていることから、表紙と帯も作品の一部とみなされている、と言っても過言ではない。表紙と帯は、本文と同等の価値を持つものという地位までのぼり詰めることができる、と言えるのではないだろうか。
電子書籍は紙の書籍にとって代わるか――書籍の形態破壊・まとめにかえて
今日、日本では様々な書店が出現している。町の零細本屋が減り、丸の内OAZO内の丸善などの売り場面積が1000坪を超える大型書店の出店、amazon.co.jpに代表されるオンライン書店など、より多くの出版物を取り扱う書店が増えている。『現在日本で流通可能といわれる和書60万点をすべて置こうとしたら、2000坪程度の売場が必要』10ということだから、大型書店の売り場は倉庫と同じ性格を持とうとしているのかもしれない。アイテムが多い書籍の取り扱いに向いているオンライン書店は、和書だけではなく洋書も多く取り扱うことが出来る他、迅速な発送や送料の無料化などが功を奏し利用者の拡大に成功し、書店の大きな脅威となっている。
このように紙の書籍の取り扱い手段が多様化する中、その書籍自体も変容しようとしている。版権の切れた著作をオンライン上で公開している「青空文庫」、新潮社など大手出版社が共同で企画した、品切れになっている文庫をダウンロード販売する「電子文庫パブリ」、電子書籍を閲覧するためのインターフェイス(e-Book、Σ-Book)の開発・発売など、インターネットの普及に伴う「電子書籍」の登場が、現在の紙の書籍の形態を壊し、将来的に紙の書籍を消滅に追い込むのではという議論がなされている。
紙やCD-ROMなどの媒体にあらかじめ固定せずに、販売ないし配布される出版物を「電子書籍」と呼ぶ。「電子書籍」は、書籍データをデバイスに応じたフォーマット形式でダウンロードするもので、パソコンやPDA(携帯情報端末)などで閲読するのが特徴である。11
電子書籍の閲読専用のインターフェイスは、決して安価とは言えない値段設定や、閲読可能な作品の少なさもあって売り上げは低迷しているが、パソコンや携帯電話の急速な普及により、それらの端末を利用して電子書籍を閲読するということは浸透しつつある。(ネット小説家と呼ばれる、ネット上で自分の作品を公開する人が増加していることや、ベストセラーとなったYoshi『Deep Love』が、初めは携帯電話の小さなディスプレイで読む作品であったということは有名な話である。)
電子書籍は紙の書籍にとって代わるか、という議論が活発にされているが、この議論は果たして意味があることなのだろうか。電子書籍は、作品を「情報」とみなし「大量保存」を目的としているのに対し、紙の書籍は、どちらかと言うと、作品を「芸術」という位置に置き、(酸性紙問題は未解決であるが)確実な長期保存を目的としているように思われる。「情報」と「芸術」、「大量保存」と「長期保存」といった、異なる性格を持った電子書籍と紙の書籍を同じ土俵に上げて競わせることは極めて無意味で、優劣をつけるなど不可能ではないだろうか。書籍が「情報の大量保存」に重点を置くものと見なされれば、電子書籍は紙の書籍に代わるであろうが、まだそういった定義が曖昧であるため、それらはしばらく相互補完的に共存すると考えられる。
多くの作品をたった一つの端末で閲覧、大量保存(、携帯)が可能な電子書籍は、確かに紙の書籍と比較して有効な面が多いように見受けられる。だが、今まで述べてきた、表紙、帯という宣伝は紙の書籍でなければ付属することはできないし、現在配信されている電子書籍は、帯は当然であるが表紙もついていない。つまり本文のみである。
雑誌を形成する作品の一つとして見なされたものを、単行本という形態で独立した作品とする、その訳は一体何であろうか。初出においてその作品にあるものは本文のみだが、単行本では本文に加え、今まで述べてきたような表紙、帯といった装飾が付属する。我々が書籍を購入するということは、本文のみの消費ではないことを無意識的に知っており、本文+表紙+帯=書籍という三位一体の意識が既に日本人に根づいていると仮定すると、表紙と帯を削ぎ落とした電子書籍は我々の中で「書籍」として成立するのはまだ先のように思われる。表紙、帯が消費者に与える影響というものを明確にすることができれば、書籍の新たな可能性を見出せるのではないだろうか。
<参考文献>
恩地孝四郎『装幀美術論集 装本の使命』阿部出版、1992年
和田誠『装丁物語』白水社、1997年
井狩春男『ベストセラーの方程式』ブロンズ新社、1990年
田中薫『本と装幀』沖積社、2001年
永江朗『ベストセラーだけが本である』筑摩書房、2003年
平野英俊『改訂 図書館資料論』樹村房、2004年
室謙二・仲俣暁生編『オンライン書店大論争 インターネットか?街の本屋か?』
大日本印刷株式会社、2000年
小川洋子『博士の愛した数式』新潮社、2003年
金原ひとみ『蛇にピアス』集英社、2003年
モブ・ノリオ『介護入門』文藝春秋、2004年
綿矢りさ『蹴りたい背中』河出書房新社、2003年
阿部和重『グランド・フィナーレ』講談社、2005年
綿矢りさ『インストール』河出書房新社、2001年
村上春樹『ノルウェイの森 上・下』集英社、1987年
J.K.ローリング『ハリー・ポッター』シリーズ、静山社、2001−2004年
Yoshi『Deep Love アユの物語』スターツ出版、2002年
1 恩地孝四郎 14
2 和田誠 21 ()内は大蔦
3 和田誠 20-21
4 モブ・ノリオ 104
5 綿矢りさ 140
6 和田誠 24
7 井狩春男 82
8 井狩春男 81
9 田中薫 228
10 永江朗 20
11 平野英俊 150−151