TOP
パネルを終えて
――パネル開催の趣旨、その他について――
(司会)山下 浩
「書誌」の編纂に一家言を持つ浦西和彦、鈴木貞美、高野彰の三氏に、プロの校正者として定評のある境田稔信氏、図書館業務のベテラン篠塚富士男氏を加え、「書誌」についてご発言いただいた。五氏には、「書誌」とは何かといったようなことは前もって申し上げず、各自のご判断でどのような方面からでも自由に語っていただくようにした。「書誌の諸相」とでもいったところであるが、五氏からは興味深いお話をいろいろと伺えたと思う。ご多忙のなかご都合をつけてくださったみなさんには厚くお礼を申し上げたい。
今回なぜこのようなパネルを開いたかについて誤解がないようにしておきたいが、それは当書誌学協会にとって「書誌」が特別に中心的な課題だからだということでも、「書誌学会」が「書誌」をつくるための学会だからだということでも決してない。実際はこれとは逆だといってもよく、「書誌」と「書誌学(会)」に対するこのような誤解をとき、いまだに混同され続けている両者の関係(あるいは無関係)をあらためて正す場にしておきたいためであった。すなわち、前者についての多種多様な内容や形態を提示していただき、その意味や意義の重要性を認識することを一方の趣旨としつつも、他方ではこれに「書誌学」という一つの学問領域がどこでどう交わるか、否、逆にどう交わらないかをこの際はっきりさせておきたいからであった。このような順序と方法をとれば、両者の違いや「書誌学(会)」の意味がもっと理解しやすいのではないかと考えたのである。
これまでの会報その他で私は「書誌学」(bibliography)とは何かについて、基本的なところを説明してきたつもりである。書誌学が、長澤規矩也氏(『書誌学序説』吉川弘文館)らの言うように英語の bibliography の訳であり、そして書誌学会という学会が百年ほど前に英国ではじめて設立され、The Bibliographical Society (英国書誌学会) と命名されたものであるかぎり(これは歴史的事実であり、その後アメリカを主とする英語圏へ、さらには他のヨーロッパへと広まり現在に至っている)、後発の日本の学会として、 bibliographyの意味を正確に知り、その名を冠した英米の元祖の学会が、何をどのように行なってきたかを知ることは大事なことだと思われるからである。
(注記)ここで注をいれておく。「書誌学」のもとになったBibliography は、1912年のW. W. Greg の講演 "What is Bibliography" においてすでに次のように定義されている。
A study of transmission: not limited to books but "to the transmission of all symbolic representation of speech or other ordered sound or even logical thought."
Bibliography は、この講演の中でGregが "Old School" と表現した旧世代の書誌編纂者、Henry BradshawやGeoffrey Keynesの仕事と区別されるために、当時しばらくは New Bibliography と呼ばれることが多かった。その後 Greg らの影響力が圧倒的となり、もはや Newの添付は不要となった。日本語訳としても、今ならずばり「情報伝達学」としてさしつかえない。日本語訳の「書誌学」は、Bibliography の内容の一部しか伝えていないからである。
以上、今日の Bibliography (Textual Scholarship) は Fredson Bowers、G. Thomas Tanselle、T. H. Howard-Hill らから D. F. McKenzie らの活躍によって、英米への抵抗が強かったフランスへも影響を与えるようになり、事実上の世界基準となっている。The Bibliographical Society (英国書誌学会)の百周年記念論文集 The Book Encompassed (Cambridge, 1992) を参照されたい。
ちなみに、この本のタイトルは英国人としてはじめて世界周航を果たしたフランシス・ドレイクの The World Encompassed (1628) に基づいており、英国書誌学会の自信と余裕がうかがえる。以下の英文は編者 Peter Davison(私のバーミンガム時代の恩師でもある)が、本書の序文中に引用した当ドレーク本からの一節である(綴りは原本のまま)。
if any will not be satisfied
nor believe the report of our experience and eye-sight,
hee should be aduised to suspend his judgement,
till he haue either tried it himselfe,
by his owne trauell,
or shall vnderstand, by other trauellers,
more particulars
to confirm his mind herein.
にもかかわらず日本ではいまだに「書誌(的)」と「書誌学(的)」の意味をいっしょくたにしたり、日本伝統(?)の「書誌学」なるものにこだわる余り、私などの説明する「書誌学」を新種あるいは別物と錯覚している人たちがいるようである。これに「文献学」と称される正体不明な、少なくとも今では存在しないはずの「学問」の名を口にされる人たちが加わって、その曖昧さに拍車がかかっているようである(国文学者を中心によく耳にするこの「文献学(的)」なる語は、ほぼ「書誌学(的)」の語で置き換えられそうでもあるが、長澤氏も上の本でこの語を問題にしている)。
日本流の「書誌学」が存在するのを否定するわけではなく、我々としても「日本近代書誌学」の成立をめざしているのであるが、しかしそのためには本来の(敢えて言えば「本物」の)書誌学の意味を、その原点に立ちかえってもっと正確に知っておく必要がある。誤解や大ざっぱな解釈の上にはりっぱな学問が成立するとは思われないからである。
書誌学が誤解され続けている原因としては、やはり上の長澤氏らにもあるようである。長澤氏は、『書誌学序説』第一篇、序説、の最初のページを次のように書き出しているが、氏には英語のbibliographyに対する知識が充分ではなかったようで、もしこの部分が多くの人に読まれ影響を与えてきたとすれば、まことに罪作りな話であった。
書誌学とは英語の Bibliography の訳語である。Bibliography の語に二義がある。一は、図書を対象としてこれを科学的に研究する学問で、英国ではこの意味に使い、わが国で書誌学とよぶものは、この意味にとっている。一は参考文献目録または解題と一般学界でよばれるものにあたり、図書館界では、書誌と訳している。米国では多くはこの意味で使われ、ときに、原語が複数の形を採られるという。(1頁)
「Bibliography の語に二義がある」というのはともかく、その説明は正確を欠く。パネラーの一人である鈴木さんも、この部分に影響されたのかどうかは不明であるが、あいもかわらず今回も bibliography について誤解した発言をしているので、後者の「書誌」(A bibliography, Bibliographies )の方からまず説明しておきたい。
英語のbibliography と語源を同じくする語がギリシアやローマの大昔から今日までヨーロッパ圏で広く存在し使われてきたのは、鈴木さんがいまさら指摘するまでもない。その場合の意味は一言でいえば A list (Lists) of books のことである(この意味の場合は、一つ、二つと数えられるものなので、Aの冠詞が付いたり複数形になったり、その前後に作家や所蔵機関の固有名詞が of などを伴って付く)。
英語(英米を問わず)においても、書誌学研究の成果に基づいて書物(その「理想本」)の物理的形態を記述する、「記述書誌」(A descriptive bibliography) のような専門的な、狭い意味での「書誌」から、単に参考文献を機械的に一覧にしただけのリストや目録類に至るまでのどんなものでも、それが文献の一覧表であるかぎり、すべて広い意味での A bibliograhy (Bibliographies) と呼んで差し支えはない。書誌学を学んでいない大多数の一般の人たちにとっては、この広い意味での「参考文献一覧表」の意味の方しか知らないといってもいいくらいである。
これに対して、前者の「書誌学」と訳される bibliographyの方は、後者とは同じ綴りではあるが、これまでの会報でも書いてきたように、英国で百年ほど前に成立した「書物を、文学的・語学的な方法とは対照的な方法で、ものとして考察し、それに拠って情報を収集する(その意義を極める)」新しい学問に対して付けられた名称のことである。長澤氏自身、上の本の別の箇所で次のように述べているが、
書誌学という名稱は、上述のごとく英語の訳語で、中華民国へはわが国から輸入されたことばである。しかし、この原語がわが国に輸入されなかった過去のわが国および隣邦において、書誌学的研究が全然なかったということはなく、ただ一貫した研究が行われなかっただけで、断片的には行なわれたが、一定した名稱がなかった。(7頁)
その「一貫した研究」が百年ほど前に英国ではじめて行われるようになり、bibliography という学問が成立したということである(「断片的」ということであれば、「書誌学」はギリシアやローマの昔に遡り、「書誌学者」は女性にしかできないかの有名な「職業」に次いで人類で二番目に古い職業だというジョークすら存在するくらいである)。
長澤氏だけでなく鈴木さんまでが今回の会報の19から20ページにおいて、「とくにアメリカでは学者がことわりもなく、 bibliograhyという場合、参考文献目録を指す場合が多いように思います」などと発言しているのは、ミスリーディングもはなはだしい。他の点ではりっぱな見識をお持ちで、「書誌(的)」と「書誌学(的)」の使い分けにも気を配るようになっておられる鈴木さんであるのに、書誌学会という学会の場でなぜこんな不用意な発言をなさるのでしょう。
英米ともに私が上に述べた通りであり、いっさい違いはない。ちなみに、アメリカでこの方面のスタンダードとなるのは、「英国書誌学会」の姉妹学会である「アメリカ書誌学会」であり、双方でこのあたりの語の使い方に違いなどあり得ない。私は、「英国書誌学会」とアメリカで代表的な「バージニア大学書誌学会」の日本事務局長を長くつとめており、私の発言はこうした学会からの責任ある回答だとお受け取りいただいてけっこうです。 鈴木さんは、「カタログ」の語についてもとんちんかんなことを言っておられる。これは会報第4号における私の説明への反論のようである。この点についてはこのパネルの高野さんのところで具体的に説明されているので参照されたいが、「目録」(A catalogue)であれ何であれ、それが文献の一覧表であれば、広い意味での A bibliograhy (Bibliographies)の一種ではあり、その中に含まれる。私が言った「目録」とは、学会等で一定の書誌学の知識を持った人たちの間で使われる狭い意味での「書誌」に対するものであるが、この二者の区別はすでに日本の図書館でも常識になっているのではないでしょうか。ついでながら、「カタログ形式」といった言い方は私には意味不明です。
以上ここで私が申し上げたことは、「議論」ではなく、書誌学を学ぶ人にとっては常識であるべきことです。これと矛盾することが他で言われているとすれば、それは高野さんがこのパネルで指摘される「書誌的研究」といった変なタイトルの本に似て、書誌学を正確に知らない人による誤用です。
書誌学の意味を正しく知るためには、ひとまず「書誌」と「書誌学」とは別物だと考えてからスタートするのがよさそうである。本の巻末などに添付する、たとえば「芥川龍之介研究文献一覧」といった類の「書誌」を作成するような場合、通常編者は、文献名や出版年や版などに疑義が出て、その造本過程までをものとして詳細に考察してみないと正確を期せないといったことでもないかぎり、書誌学(的考察)とは無縁なところで書誌を作成しているのではないでしょうか。というよりも、このようなタイプの仕事の場合には、実際問題として、書誌学的考察よりもむしろそれ以外の文学的、その他の様々な方面の知識や判断、それに書誌学的に根拠があるかどうかとは別次元のいろいろな「約束ごと」(例えば、書名は奥付でなくタイトルページから一律に取ることにする、と決めるようなこと)の方を多く必要としそうです(「書誌学会」がこのような書誌作成上のノウハウや技術を論じる場としても大いに活用されていいが、そのことと書誌学とは直接的には何の関係もない)。
英語では、書誌の方が A bibliograhy (Bibliographies) と書かれるように、その語が使われる文脈をみれば書誌と書誌学が混同されることはあまりない。しかし日本では、片方が「書誌」と訳され他方が「書誌学」と訳されてしまったためか、あるいは先人の紹介の仕方に問題があったためか、どうも両者が密接不可分であるかのように、もっとひどいのは「書誌学」が「書誌」を作成するための技術でもあるかのように、とんでもない誤解がなされてきた(長澤氏が上の本で、「書誌学」と「書誌」がわかりにくい専門用語なので、「図書学」と「参考文献」の方を使うよう提唱しているのは一つの見識であるが、氏が主に図書館学科で講義をしたためなのか、「書誌」が他の関連分野にまして「書誌学」の中心的課題であるかのように密接に論じられているのが誤解を大きくした一因ではないかと思われる。)
書誌が書誌学と関係する度合いは、本文校訂や出版史方面の研究(印刷史の研究なども含めて)が書誌学に関係する度合いと同距離・同程度においてである。その程度は、これらの研究の個々が、書誌学すなわち本の物理的考察(によって得られる情報)にどの程度依存するかで決まってくる。書誌の編纂も本文校訂も、仮に書誌学的考察抜きで行なわれるとすれば、それは書誌学とは関係がないといっていいのである。
その意味で、浦西さんがこのパネルの冒頭で、「書誌」と「書誌学」の違いとか、それが外国でどうであるかなどには興味も関心もないと言っておられるのは、わからなくもない。浦西さんは現在の日本近代文学者の中で「書誌」の編纂に圧倒的な業績を残されている第一人者であるが、その浦西さんがそうしたことを言われるのは、浦西さんの業績の多くが、文献の一点一点をものとして子細に考察する(書誌学的考察)というよりも、むしろそれ以外の文学(史)的その他多岐にわたる判断や作業によって、文献を「列挙」することにより多くのウエートを置かれているからではないでしょうか。もし浦西さんが、高野さんが論じられるような、詳細な「書誌学的考察」を必要とする「記述書誌」を編纂するとすれば、記述の方法その他多くの点で、そんな発言はしていられないように思われます。これに関連して、浦西さんまでが他の多くの日本近代文学者と同様に、「書誌的」という言い方を連発しておられるのは気になるところです。
日本近代文学専攻者に失礼を顧みないで言えば、例外はあるとしても図書館関係者に比べて、概して書誌学用語や書物用語の使い方にルーズ(自己流)である。せっかくのりっぱな業績でありながら、こうした用語を自己流で使っているために、正確な意味が今ひとつわからない全集類の記述が少なくない。日々忙しい図書館業務の中では、このようなことで問題が起これば大変なので、彼らは日頃の心構え・意見統一がしっかりしているようである。文学研究者の方には多少とも「甘えの構造」があるようで、「書誌的」といった言い方の曖昧さを指摘されると、「書誌学をきちんと学んでいないのでつい」といったいいわけをする人が私の経験でも少なくない。アカデミックな問題なのでもっと真剣に考えていただきたいと思う。
さて「書誌学会」とは何をする学会かということであるが、「書誌」の学会ということではむろんない。「書誌学的」が「文学的」に対する語だということを思い出して、「文学会」が文学的アプローチ(作品本文の語学的・文学的な意味の観点からの追求)を主とするのに対して、その(文学作品に限らないが)書誌学的アプローチを主に行う学会だと考えればわかりやすい。文学会が「文学的」以外の(書誌学的を含む)広い範囲に関心を示すように、書誌学会も文学的を含む広い範囲に目を向けていいし、実際問題としてそうならざるを得ない。要は重点の置き方の違いである。
英米の書誌学会は、通常 Pure Bibliography といわれる印刷工程や植字工、活字、製本等を含む細かい基礎研究をベースに、出版史(書物史)、印刷史、本文研究、全集編纂、各種の書誌編纂等、実に多くの分野に関心を示している。
最後に私なりに「書誌」への提言をしておきたい。
私は従来から、本文について、どれがベストな本文かを云々するだけではなく、対象とする読者や読書目的に応じてさまざまなタイプの本文があっていいということを力説してきた。作者の原稿に近い、すなわち初めて発表された初出の本文も、作者の最終的に手が入った段階の本文も重視されていいし、それとは次元の異なる「社会的産物」あるいは「商品」としての、読者の受容の実態を重視する立場の本文もあっていいということである。
書誌も、似たようなことが言える。日本にも書誌の労作は少なくないが、しかし多くの場合に感じられるのは、その記述の仕方、情報の示し方が画一的で、非個性的、万人向けのものが多いということである。書誌のことを実際にそのようなものだと思っている人も少なくなさそうである。その結果が、書誌の作成とは機械的な仕事で、知的ではないなどというつまらない偏見を生んでしまうのかもしれない。
「書誌」の基本は、ある版の一冊の姿をスポット的に記録するのではなく、出版された全体を見渡し、可能な限り多くの部数を隅から隅まで調べ、その「理想本」の「もの」としての姿を明確に示すことである(すなわちこの作業は本文校訂のための書誌学的考察と特に変わらない)が、それだけにとどまるものではなく、その他の多くの知見の集合体でありたい。
私は以前、書誌とその作成者との関係を、肖像画とそれを描く画家との関係に喩えたいと述べたことがある。画家が違えば描き方はすべて違う。書誌も、その記述内容をもっと創造的に、もっと個性を出してもいいと思うのである。書誌の情報とは詳しければいいというものでもなく、細かすぎては使いにくい。特定の観点からの記述を重視して、一種の「作家論」や「作品論」と呼べるような「書誌」がもっと工夫されてもいいのではないか。この点については浦西さんが傾聴すべき発言をしておられる。漱石の版本などを、その装丁史の観点から、あるいは印刷史、活字の種類や組み方の観点から、強い光をあてて「論じる」ような書誌が出来てもいいと思う。
編集後記
会報6号は、第七回大会の報告を特集しています。第七回大会については以下の浅岡邦雄さんからの報告にあるとおりです。
この会報は、通常の予定ですとすでに開催を終わっている第八回大会(一九九九年十月二日 日本エディタースクール)までにはおそくとも発行しなければならなかったのですが、一部の執筆予定者に病気その他の事情で原稿が提出されなかったり、大幅におくれたり、これに運悪く私の方の別な仕事が重なり、発行が大幅におくれてしまいました。その結果、通常なら掲載される「所感」のような記事が今回は一点も掲載できておりません。
会員の皆様、それに締切までにきちんと原稿をお届けくださっていた執筆者各位に対して、今回の遅れを深くお詫びいたします。
なお、浅子逸男さんの研究発表については、その内容がきわめてユニークで、他ではなかなか得られないデータを含んでいるために、相当な分量になりますが、詳細な別表を含む発表資料のほとんどを掲載することにいたしました。 (山下 浩)
「本号会報の表紙」
日本近代書誌学協会
会報 第6号
目次
第七回大会報告
(研究発表)
『半七捕物帳』の構成 浅子逸男 1
(パネル 「書誌」について考える)
書誌について 浦西和彦 14
書誌の書き方、読み方――個人全集の場合 鈴木貞美 19
書誌とは 高野 彰 25
『言海』大形本の書誌について 境田稔信 30
電子図書館時代の古地図情報 篠塚富士男 36
パネルを終えて (司会)山下 浩 41
――パネル開催の趣旨、その他について――
編集後記 46
第七回大会を終えて 46
日本近代書誌学協会会則 47
日本近代書誌学協会1998年度決算報告 47
「裏表紙」
日本近代書誌学協会大会
◆第一回大会(1996年6月8日)
宮武外骨著『アメリカ様』とGHQの検閲 浅岡邦雄
東京式合巻『巷説児手柏』をめぐって 山田俊治
◆第二回大会(1996年10月12日)
山田美妙著『日本大辞書』の印刷と出版 境田稔信
本文校訂 嘉部嘉隆
◆第三回大会(1997年3月22日)
「公開シンポジウム 日本近代書誌学を成立させるために」
書誌学についての私の考え15項 鈴木貞美
明治出版史の立場から 稲岡 勝
「書誌」学上の2つの事例から 大森一彦
本文書誌学、もう一つの『春と修羅』 栗原 敦
「感覚的書誌学」について 大屋幸世
シンポジウムを終えて(司会) 山下 浩
◆第四回大会(1997年10月4日)
本文校訂の諸問題――『井伏鱒二全集』を例に 前田貞昭
協会プロジェクト中間発表
@ 日本近代文学の「分析書誌」編纂について(嘉部嘉隆)
A 書誌学用語、書物用語等の検討について(山下 浩)
明朝活字からみた日本近代文学(講演) 矢作勝美
◆第五回大会(1998年3月14日)
『明六雑誌』の書誌学的検討 中野目徹
――用紙(料紙)の問題を中心に――
昭和初期における本の売り方売られ方 二瓶浩明
板本から活字へ(講演) 高木 元
◆第六回大会(1998年10月3日)
「剽窃」その曖昧な境界 甘露純規
――明治一〇年代の新聞からの転載をめぐって――
和文鋳造活字の一般化と明治の出版物 府川充男
――明治初年から二〇年代を中心に――
中村古峡と『変態心理』(講演) 曾根博義
発表要旨は、第一回大会、第二回大会が会報「初号」(1997年3月1日
発行)、第三回大会が会報2号(1997年6月10日発行)、第四回大会
が会報3号(1998年2月10日発行)、第五回大会が会報4号(1998
年8月20日発行)、第六回大会が会報5号(1999年3月20日発行)
に掲載されています。バックナンバーは会員に限り配布いたします。