TOP
漱石の自筆原稿『坊っちやん』における虚子の手入れ箇所の推定、ならびに考察
渡部江里子
《目次》
一、序
二、『坊っちやん』原稿に対する虚子の手入れ箇所の推定
三、漱石と虚子の筆跡の違いについて
(1)「お」と「●」
(2)「な」
(3)「も」
(4)「や」
(5)「ろ」
(6)「く」
(7)「睨」
(8)」かぎ括弧
(9)「どうして」
(10)「では」「其で」「てゝ」
(11)「御置なさいや」
(12)「の」
四、虚子の手入れ箇所の分析・考察
五、まとめ
考察文献
一、序
漱石が『坊っちやん』を書き始めたのは明治三十九年三月十五日、あるいは十七日頃で、「ホトヽギス」編集者の虚子が原稿を受け取ったのは三月二十五日頃と推定されている。つまり漱石は『坊っちやん』を十日足らずで書き上げたことになり、かなりの速筆であったといえる。漱石は雑誌の発行が遅れることを非常に気にしており、なんとか四月一日の発売日に間に合うように執筆を急いだはずである。(四月一日虚子宛の書簡に「雑誌がおくれるのはどう考へても氣になる三十一日の晩位に四方へ廻して一日から賣りたかつたですな」「今日新聲でも新潮でも手廻しがいゝみんな三月中に送って來た。是を見てもホトヽギスは安閑として居てはいけない。然し夫は漱石の原稿がおくれたからだと在つては仕方がない恐縮」とある)そして出来上がった作品は一旦虚子の手に渡り、方言の添削を受けて(三月二十三日虚子宛の書簡に「松山だか何だか分からない言葉が多いので閉口、どうぞ一読の上御修正を願たいものですが御ひまはないでせうか」とある)大急ぎで印刷所へ回されたと思われる。虚子が直した文章を再び漱石が確認するような時間的余裕はなかったはずである。前掲の書簡は東京生まれの漱石が松山出身の虚子に方言の添削を依頼したもので、方言に関しては漱石は虚子に一任していたため問題ないが、実際に直筆原稿を調べてみると、方言以外の箇所にも漱石のものとは違う筆跡でかなり書き込みがあるのがわかる。これは虚子によるものと考えてよいだろう。
漱石は虚子宛の書簡の中で校正のお礼を言っているが「中央公論抔は秀英舎へつめ切りで校正して居ます。君はそんなに勉強はしないのでせう。雑誌を五十二錢にうる位の決心があるなら編緝者も五十二錢がたの意氣込みがないと世間に濟みませんよ。いや是は失敬」というようにその出来栄えには不満そうである。確かに初出誌「ホトヽギス」を見ると誤植が多いが、漱石は虚子が方言以外の箇所にも手を入れたことを知らないので、虚子による変更も誤植だと受け取ったのではないだろうか。
相原和邦氏は岩波の漱石全集第二巻の月報の「『坊っちやん』注解のあとで」のなかで加筆修正の一部を取り上げて「(前略)さらに『御知らんかな。ここ随一の別嬪さんぢやがな』が『まだ御存知ないかなもし。こゝらであなた一番の別嬪さんぢやがなもし』となる改変もある。この一文では、二箇所を松山弁に変えたうえ、『ここ随一』という硬い語句が『ここらで一番の』という言い回しに改められ、『あなた』という呼掛け語さえ付け加えられている。部分的な方言の手直しを越えた大きな改変であり、文章上の効果も高まっている」といい、「この手直しによって全体として、文学的価値が付加されていることは否定出来ない。少なくとも松山弁の醍醐味の発揮は漱石の要請による虚子の加訂に負うところが大きいと言わなくてはならない」と評価している。
しかし、あくまでも漱石は方言の修正を依頼したのであって、それ以上の手入れは虚子の越権行為と言えよう。『坊っちやん』のなかの「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」などは、中学校の生徒や土地の人が使う方言の一部が漱石の耳におもしろく響き、それが印象に残った結果生まれた名文句の一例であろう。漱石は愛媛県尋常中学校の教員として一年間松山に赴任している。東京で育った漱石が松山で受けた印象と、江戸っ子の坊っちやんが四国辺の土地から受けた印象は重なる部分が大きいと思われる。両者ともその土地に馴染めず(つまり風俗も言葉も自分の中に取り込むことができず、常に自分とは異質なものと感じていた)ついにそのままその土地をあとにしたのである。『坊っちやん』は「江戸っ子の目で見た地方」が舞台になっているのだから、漱石自身の表現を大切にするべきで、「部分的な方言の手直しを超えた大きな改変」は必要なかったのではないかと思う。
では実際に『坊っちやん』自筆原稿のどこに虚子の手が加えられているのか、漱石と虚子の筆跡の違いに注意してみる。明らかなのは平仮名の「お」「な」「も」「や」「く」と、話言葉につけられる「かぎ括弧」のかたちの違いである。更に「ろ」や漢字の「睨」などの文字にも分かりにくいが書き癖がみられる。虚子の筆跡は漱石の依頼通り、ほとんどが方言の使用者である萩野のおばあさんの話言葉にみられるが、うらなりの言葉にも見いだすことができる。二章にでてくる山城屋の下女や三章のいか銀の亭主、五章の船頭は地元の人であると思われるが方言を使わない。(船頭の言葉は一言だけで、水深を聞かれたときの答えが「六尋位だがな」と書かれたあとで「がな」を削って「六尋位だ」となっている)
虚子は萩野のお婆さんの語尾に松山弁らしく「もし」をつけて会話を整えようとしているのが全体の傾向として見て取れる。それ以外にも虚子による「方言の手直しを越えた改変」が随所にみられるので、詳しく見ていくこととする。
二、『坊っちやん』原稿に対する虚子の手入れ箇所を推定する。
漱石の原文(☆)に対して、虚子の手入れ箇所(★)は以下の通りだと思われる。
(整理の都合上、それぞれの文に文章番号を記す)
[四章]
@☆「イナゴはあたゝかい所が好きぢやけれ、大方一人で御這入りたのぢやらう」
(初出誌『ホトヽギス』九巻七号三七頁四行 漱石自筆原稿三八枚 岩波新漱石全集二巻二八五頁九行)
★「イナゴは温〔ぬく〕い所が好きぢやけれ、大方一人で御這入りたのぢやあろ」
[七章]
A☆なぜ奥さんを連れて、一所に御出でんかなどゝ質問をする。
(初出七五頁一〇行 原稿七七枚 三二五頁二行)
★どうして奥さんをお連れなさつて、一所に御出でなんだのぞなもしなどゝ質問をする。
B☆なあに、あんた二十四で奥さんが御在りるのは當り前ぞなと冒頭を置いて、
(初出七五頁一二行 原稿七七枚 三二五頁三行)
★それでも、あなた二十四で奥さんが御在りなさるのは當り前ぞなもしと冒頭を置いて、
C☆「然し先生はもう、御嫁が御有りるに極つとる。私はちやんと、さう、見て取つた」
(初出七六頁四行 原稿七八枚 三二五頁一一行)
★「然し先生はもう、御嫁が御有りなさるに極つとらい。私はちやんと、もう、睨〔ね〕らんどるぞなもし」
D☆「へえ、活眼だね。どうして、見て取つたんですか」
(初出七六頁六行 原稿七八枚 三二五頁一三行)
★「へえ、活眼だね。どうして、睨〔ね〕らんどるんですか」
E☆「何〔ど〕故〔う〕してゝ。東京から便りははないか、便りはないかてゝ、毎日便りを待ち焦がれて御いでるぢやらうがな」
(初出七六頁七行 原稿七八枚 三二五頁一四行)
★何〔ど〕故〔う〕してゝ。東京から便りははないか、便りはないかてゝ、毎日便りを待ち焦がれて御いでるぢやないかなもし」
F☆「いいえ、あんたの奥さんは慥かぢやけれど…」
(初出七六頁一四行 原稿七八枚 三二六頁六行)
★「いいえ、あなたの奥さんは慥かぢやけれど…」
G☆「あんたのは慥か―あんたのは慥かぢやが―」
(初出七六頁最終行 原稿七八枚 三二六頁八行)
★「あなたのは慥か―あなたのは慥かぢやが―」
H☆「こゝ等にも大分居ります。先生、あの遠山の御嬢さんを御知りかな」
(初出七七頁二行 原稿七九枚 三二六頁一〇行)
★「こゝ等にも大分居ります。先生、あの遠山の御嬢さんを御存知かなもし」
I☆「まだ御知りんかな。こゝ随一の別嬪さんぢやがな。あまり別嬪さんぢやけれ、学校の先生方はみんなマドンナ/\と御言ひととるぞな。まだ御聞きんかな」
(初出七七頁四行 原稿七九枚 三二六頁一二行)
★「まだ御存知ないかもなもし。こゝらであなた一番の別嬪さんぢやがなもし。あまり別嬪さんぢやけれ、学校の先生方はみんなマドンナ\/と言ふといでるぞなもし。まだ御聞きんのかなもし」
J☆「ほん當にさうぞな。鬼神の御松ぢやの、姐妃の御百ぢやのてゝ怖い女が居りましたなあ」
(初出七八頁一行 原稿七九枚 三二六頁一二行)
★「ほん當にさうぢやなもし。鬼神の御松ぢやの、姐妃の御百ぢやのてゝ怖い女が居りましたなもし」
K☆「其マドンナさんがな、あんた。そらあの、あんたを此〔こ〕所〔ゝ〕へ世話をして御呉れた古賀先生な―あの方の所へ御嫁に行く約束が出来て居たのぢやがな―」
(初出七八頁四行 原稿七九枚 三二七頁一三行)
★「其マドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたを此〔こ〕所〔ゝ〕へ世話をして御呉れた古賀先生なもし―あの方の所へ御嫁に行く約束が出来て居たのぢやがなもし―」
L☆「人を頼んで御懸合ひて見ると、遠山さんでし古賀さんに義理があるから、すぐには返事が出来かねて―まあよう考へて見やう位の挨拶を御したのぢやがな。
(初出七八頁一五行 原稿八〇枚 三二八頁九行)
★「人を頼んで懸合ふてお見ると、遠山さんでし古賀さんに義理があるから、すぐには返事が出来かねて―まあよう考へて見やう位の挨拶を御したのぢやがなもし。
M☆すると赤シヤツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をする様になつて、とうあなた、御嬢さんを手馴付けて仕舞ふたのぢやがな。
(初出七八頁最終行 原稿八〇枚 三二八頁一〇行)
★すると赤シヤツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしる様になつて、とうあなた、御嬢さんを手馴付けてお仕舞ひたのぢやがなもし。
N☆赤シヤツさんも赤シヤツさんぢやが、御嬢さんも御嬢さんぢやてゝ、みんなが悪るく云ふのぞな。
(初出七九頁二行 原稿八〇枚 三二八頁一二行)
★赤シヤツさんも赤シヤツさんぢやが、御嬢さんも御嬢さんぢやてゝ、みんなが悪るく云ひますのよ。
O☆今更学士さんが御出だけれ、其方に替へよたて、それぢや今〔こん〕日〔にち〕様へ済むまいがの、あなた」
(初出七九頁四行 原稿八〇枚 三二八頁一三行)
★今更学士さんが御出だけれ、其方に替へよてゝ、それぢや今〔こん〕日〔にち〕様へ済むまいがなもし、あなた」
P☆「夫で古賀さんに御気の毒だてゝ、
(初出七九頁八行 原稿八〇枚 三二九頁二行)
★「夫で古賀さんに御気の毒ぢやてゝ、
Q☆「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぞな。然し赤シヤツさんは学士さんぢやけれ、働らきはある方ぞなもし。夫から優〔やさ〕しい事も赤シヤツさんぢやな。生徒の評判は堀田さんの方がいゝのぢやが―」
(初出八〇頁七行 原稿八一枚 三三〇頁一行)
★「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぢやけれど、然し赤シヤツさんは学士さんぢやけれ、働らきはある方ぞなもし。夫から優〔やさ〕しい事も赤シヤツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がえゝといふぞなもし」
R☆いえ御構ひて下さるな、と遠慮だか何だか矢つ張立つてる。
(原稿八五枚 三三三頁一三行)
★いえ御構ふておくれなさるな、と遠慮だか何だか矢つ張立つてる。
[八章]
S☆「そりやあんた。大違ひの勘五郎ぞな。」
(初出九六頁三行 原稿九七枚 三四六頁五行)
★「そりやあなた。大違ひの勘五郎ぞなもし。」
21☆御母さんが校長さんに御頼みて、もう四年も勤めて居るものぢやけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやして御呉れんかなてゝ、あんた」
(初出九六頁一二行 原稿九八枚 三四六頁一二行)
★御母さんが校長さんに御頼みて、もう四年も勤めて居るものぢやけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやして御呉れんかなてゝ、あなた」
22☆「校長さんが、ようまあ考えて見様ぞいと御云ひたげな。
(初出九六頁一五行 原稿九八枚 三四七頁一行)
★「校長さんが、ようまあ考えて見とこうと御云ひたげな。
23☆「卑怯でもあんた、月給を上げてくれたら、大人しく頂いて置く方が得〔とく〕ぞな。
(初出九八頁三行 原稿九九枚 三四八頁六行)
★「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いて置く方が得〔とく〕ぞなもし。
24☆若いうちはよく腹の立つものぢやが、年をとつてから考へると、も少しの我慢だつたに惜しい事をした。
(初出九八頁三行 原稿九九枚 三四八頁六行)
★若いうちはよく腹の立つものぢやが、年をとつてから考へると、も少しの我慢ぢやあつたのに惜しい事をした。
25☆腹立てた為めにこないな損をしたと悔むのが當り前ぢやけれ婆さんの言ふ事をきいて、赤シヤツさんが、月給をあげてやろと御言ひたら、難有うと受けて御〔おゝ〕置〔き〕や」
(初出九八頁五行 原稿九九枚 三四八頁八行)
★腹立てた為めにこないな損をしたと悔むのが當り前ぢやけれお婆の言ふ事をきいて、赤シヤツさんが、月給をあげてやろと御言ひたら、難有うと受けて御〔おゝ〕置〔き〕なさいや」
26☆大き玄関へ突つ立つて頼むと云ふと、
(初出九九頁二行 原稿一〇〇枚 三四九頁五行)
★大きな玄関へ突つ立つて頼むと云ふと、
この他に虚子が萩野のお婆さんの語尾に「もし」を付け加えることによって、伊予地方の方言らしく整えようとした箇所が二十二箇所あるが、その箇所のみを提示する。
初出七五頁最終行 原稿七八枚 全集二巻三二五頁七行
初出七六頁一二行 原稿七八枚 全集三二六頁四行
初出七七頁八行 原稿七九枚 全集三二七頁一行
初出七七頁一〇行 原稿七九枚 全集三二七頁三行
初出七七頁一二行 原稿七九行 全集三二七頁五行
初出七八頁一一行 原稿八〇枚 全集三二八頁四行
初出七八頁一二行 原稿八〇枚 全集三二八頁六行
初出七九頁一五行 原稿八一枚 全集三二九頁八行
初出八〇頁一五行 原稿八一枚 全集三二九頁一四行
初出八〇頁一一行 原稿八二枚 全集三三〇頁五行
初出八二頁一三行 原稿八四枚 全集三三二頁八行
初出九五頁一三行 原稿九七枚 全集三四五頁一四行
初出九六頁一行 原稿九七枚 全集三四六頁三行
初出九六頁二行 原稿九七枚 全集三四六頁四行
初出九六頁六行 原稿九七枚 全集三四六頁八行
初出九六頁九行 原稿九七枚 全集三四六頁一〇行
初出九七頁一一行 原稿九八枚 全集三四七頁一三行
初出九七頁一五行 原稿九八枚 全集三四八頁二行
初出九八頁一行 原稿九八枚 全集三四八頁四行
初出九八頁三行 原稿九八枚 全集三四八頁六行
初出一二四頁最終行 原稿一二六枚 全集三七六頁三行
初出一二五頁一行 原稿一二六枚 全集三七六頁四行
漱石の筆跡か虚子の筆跡かはっきりしない箇所の変更
[七章]
27☆一反古賀さんへ嫁に行くてゝ承知をしながら、
(初出七九頁三行 原稿八〇枚 三二八頁一三行)
★一反古賀さんへ嫁に行くてゝ承知をしときながら、
28☆あしは約束のあるものを横取りすつ積りはない。破約になれば貰ふかも知れないが、
(初出七九頁九行 原稿八一枚 三二九頁三行)
★あしは約束のあるものを横取りする積りはない。破約になれば貰ふかも知れんが、
三、漱石と虚子の筆跡の違いについて―資料別表参照
漱石の『坊っちやん』原稿における虚子の手入れ箇所を特定するため、虚子自筆の書簡(日本近代文学館所蔵)を参考にした。これは虚子の写生文などの自筆原稿で、時代の古いものは見ることができなかったためである。明治三十九年執筆の『坊っちやん』への手入れはペン書と思われる。参考資料には、書体の条件を揃えるためにペン書で、しかもなるべく明治三十九年に近い時期に書かれた虚子の書簡を選んだ。
(1)「お」と「●」
『坊っちやん』のなかには平仮名の「お」は現行の「お」と変体仮名の「●」の二種類が見られる。「●」は加筆箇所のみに見られる字体であるため虚子の筆跡と推定できる。大正元年十一月二十二日付の虚子の書簡には、丁寧を表す接頭語「お」を表記する場合、漢字の「御」と変体仮名の「●」の二種類が使われており、現行の「お」という表記は見られない。以上のことから
文章番号A●連れ
L●見ると
M●しる様に・●仕舞
R●くれなさるな
23●くれたら
25●婆
(傍線部は加筆を示す。傍線のない部分は漱石の筆跡)
これらの加筆は虚子によるものと判断できる。
Mは、「仕舞ふた」という元の文に「●」を加筆すると「●仕舞ふた」という不自然な言い回しになるため、「ふ」を「ひ」に改めて最終的に「●仕舞ひた」とされている。これは「●」の加筆に伴う修正であるため、「ひ」の加筆も虚子によるものと思われる。
(2)「な」
平仮名の「な」については、漱石は現行の「な」と変体仮名の「◇」の二種類を用いている。「な」はほぼ同一字体であるが、「◇」はそれぞれ微妙に形が違っている。虚子もまた前掲の書簡のなかで変体仮名の「◇」を使用しているが、漱石と同様に様々な形の「◇」があり、変体仮名から二人の筆跡を見分けることは困難である。
『坊っちやん』原稿における、現行の字体「な」を見ていくと二種類に分けることができるのに気づく。Rの「●くれなさるな」は(1)の根拠から「●くれな」までが虚子の筆跡であることがわかるが、ここに見られる「な」は漱石の文中の「な」とは違っている。漱石の「な」は二画めの縦棒が長めで、四画めの最後は右下がりで終わっている。(例原稿七七枚二行「数学なんて」、一五行「氣の毒さうな」、Rと同じ原稿八五枚二一行「生意氣な」など)Rの「な」は二画めの縦棒が短く四画めの最後が右上がりで終わっているのである。Rの「な」と同じ字体の「な」は、加筆部分に多く見られ、
A●連れなさつて・御出でなんだのぞなもし
Bあなた・御在りなさる
C御在りなさる・睨らんどるぞなもし
E御いでるぢやがないかなもし
Fあなた
Gあなた・あなた
Iこゝらであなた一番の
I言ふといでるぞなもし
原稿七九枚八行ぢやらうがなもし
Kあなた・あなた
O済むまいがなもし
原稿九七枚一三行誰がぞなもし
Sあなた
21あなた
26大きな玄関へ
以上の加筆は虚子のものと思われる。
(3)「も」
『坊っちやん』原稿において漱石の「も」は横棒が一本しかない「△」のみである。それに対して萩野のお婆さんの語尾に加筆されている「もし」あるいは「なもし」の「も」には横棒が二本ある。語尾に「もし」をつけるのは伊予地方の方言であるから、これらは全て、漱石の依頼に応えて虚子が加筆したものと考えて間違いはないだろう。(原稿一三三枚、一四一枚、一四八枚の「もし」「なもし」の加筆は「も」の特徴から漱石のものと判断できる)
「もし」「なもし」という単純な方言の追加以外で、虚子の筆跡の「も」が見られるのは次の箇所である。
Bそれでも
C私はちやんと、もう
H御存知かなもし
I御存知ないかなもし
I言ふといでるぞなもし(「な」の項でも触れた)
(4)「や」
漱石の「や」は二画めの点が、一画めと交わらず、その上部にあるのが特徴である。それに対して加筆箇所に時折見られる「や」には、前述の漱石式の「や」は無く、二画めの点が一画めの下にあるもの「▼」と、一画めと二画めが交わるもの「▲」がある。これは漱石には見られない書き癖であり、虚子のものと推定できる。前掲の虚子の書簡からも同様のことがいえる。
Jさうぢやな
P御氣の毒ぢやてゝ
Q強さうぢやけれど
24我慢ぢやあつた
以上の加筆は虚子のものと思われる。
(5)「ろ」
虚子が書いたと思われる「ろ」が原稿中に少ないため漱石の筆跡との比較がしにくいが、漱石は算用数字の「3」の形にちかい「ろ」と斜めに書くのに対し、@にみられる「ぢやあろ」の「ろ」は垂直軸に沿って真っすぐに書かれている。
(6)「く」
『坊っちやん』原稿のなかで漱石は変体仮名の「■」だけを用いているのに対して@「イナゴは温〔ぬく〕い所が好きぢやけれ」の「温」に振られたルビは「ぬく」となっており、現行の「く」が使われている。これは漱石以外の人物、つまり虚子による書き込みであると考えるのが自然であろう。また先に触れた虚子の書き込み、R「●くれなさるな」にも漱石のものとは違う現行の「く」が使われている。
(7)「睨」
漱石は原稿の六七枚一行に「睨め返す」、九二枚一六行に「睨めた時は」と書いている。それに比べC、Dの「睨〔ね〕らんどる」の「睨」は右側の「兒」の形が漱石のものとは明らかに違うため虚子のものであると思われる。
(8)」(かぎ括弧)
漱石は原稿用紙の升目の左下の線上に小さくかぎ括弧を書いて会話文を締めくくるのに対し、虚子のものは漱石の2倍程の大きさで、升目の線上にあるとは限らない。
(9)「どうして」
Aどうして奥さんを
この傍線部が虚子のものであるかどうか、今までの方法では区別しにくい。特徴のある文字が見いだせないからである。しかし漱石の筆跡で「どうして」と書かれたものと比べることによって、見分けることが可能であろう。なるべく時間的に近い関係にあるものと比較するため、自筆原稿七章の坊っちやんと萩野のお婆さんの会話を中心に探してみると、七七枚一〇行、七八枚一一行、八一枚七行に漱石が「どうして」と書いている。しかしどれもAの修正箇所の筆跡とは明らかに違うのである。「う」の形を見ると漱石の場合、一画めの点と二画めが離れていることが多いが、Aの「う」はつながっている。「し」を見ると、Aの「し」は直後に平仮名がきているためか、右上に曲がることなく真っすぐ下に伸びたままになっている。(「もし」などのように文の末尾に「し」がくるときは、右上に曲がる)それに対して漱石の「し」は直後に平仮名がこようと漢字がこようと右上に曲がっているということが圧倒的に多いのである。
Aの「どうして」を虚子の筆跡とするならば、
22「よう考えて見とこう」
も虚子のものと言えそうである。さらに
Qの「強さうぢやけれど」「えゝといふぞなもし」はそれぞれ(5)と(4)の理由から虚子の筆跡といえるが、同一文中の「赤シヤツさんの方が優しいが」という部分も「し」の形や、元の文の消し方が前後と同じくみせけちとなっていることから判断して虚子のものといってよいだろう。
(10)「では」「其で」「てゝ」
別表を参照して比較すると漱石と虚子の「て」の形が微妙に異なっているのがわかる。さらに「其」という文字の一画めと六画めの横棒のバランスや七、八画めの点の形が明らかに違う。繰り返し符号の「ゝ」については、ここでは虚子は左へ撥ねているのに対して漱石は撥ねていない。しかしQ「えゝといふぞなもし」における繰り返し符号には撥ねが見られないため、これを根拠に区別をつけることはできない。
(11)「御置なさいや」
25受けて御〔おゝ〕置〔き〕なさいや
これは元は「御置きや」であったが、「き」を消してその右わきに「なさい」を書き加えたものである。原稿には最初「おゝき」とルビが付されているが、一度「き」が消された後にまた「き」が書かれている。
先に変体仮名の「◇」で漱石と虚子の筆跡を区別するのは困難であると述べたが、ここで注目したいのは変体仮名の「◇」である。25で見られる変体仮名の「◇」とH、Iで見られる変体仮名の「◇」の形が非常に似ている。すでにH、Iの加筆修正は虚子の筆跡であるとわかっているので、判断材料には乏しいものの25も虚子によるものと考えてよいと思われる。
(12)「の」
これは文字の形だけでは区別がつけにくいが、文字の大きさや前後の文字とのバランスを観察すると、漱石は比較的小さく「の」を書いているのが分かる。それに比べI「御聞きんのかなもし」や24「我慢ぢやあつたのに」という文に挿入の形で書かれた「の」のように、不釣り合いに大きな「の」が見られるのは虚子の書き込みである可能性があると思われる。
四、虚子の手入れ箇所の分析・考察
(1)敬意を表す接頭語「お」の加筆、尊敬語・丁寧語の追加
文章番号A 連れて→お連れなさつて
B 御在りるのは→御在りなさるのは
C 御在りるに→御在りなさるに
L 懸合ひて見ると→懸合ふてお見ると
M 出入をする様に→出入をおしる様に 仕舞ふた→お仕舞ひた
N 云ふのぞな→云ひますのよ
R 下さるな→おくれなさるな
23 くれたら→おくれたら
25 婆さんの→お婆の
訂正前の文章でも萩野のお婆さんの発言には多くの場合、敬語が使われているが、虚子の筆跡でさらに接頭語の「お」が加えられたり、丁寧語に変えられたりしているのがわかる。現代日本語方言大辞典によると、「お+連用形+る、または、た」(例・オイデル)は愛媛県方言における動詞活用の丁寧形であるという。とすると一見不自然に思える「お仕舞ひた」などの表現は、虚子が漱石の依頼に応えて方言に変えた結果の産物であるといえる。しかし、動詞に「なさる」や「ます」をつけたり、「婆さんの」を「お婆の」と変えるのは方言の修正とはいえない。これは漱石からの依頼の範囲を超えた行為といえよう。
(2)呼びかけ語として使われている「あんた」を「あなた」に変更
B 一箇所 F 一箇所 G 二箇所
K 二箇所 S 一箇所 21 一箇所
※MOに一箇所ずつ、漱石自身の筆跡で「あなた」とある。
(原稿八〇枚 全集三二八頁)
※23に一箇所、漱石の書いた「あんた」が訂正されないで残っている。
(原稿九九枚 全集三四八頁)
これはいずれも萩野のお婆さんが坊っちやんに話しかける時に用いる呼びかけ語である。共通語では「あなた(貴方)」は相手に軽い敬意をもって使う言葉であり、「あんた」は「あなた」の変化した形で関西では親愛の気持ちで使われる。萩野夫妻は「もとが士族だけに双方とも上品だ」と書かれているように「上品」ではあるが、お婆さんは坊っちやんを相手にかなり親しく方言まじりで会話を交わしているところから、「あなた」よりも「あんた」という呼びかけ語の方がしっくりするように思われる。瀬戸内海方言大辞典によると「内海域ではアナタを言うことはまれである」(アンタが一般的)という。このことからも、萩野のお婆さんの呼びかけ語は「あんた」のほうが妥当であるように思える。つまり漱石は『坊っちやん』の中でお婆さんに「あんた」という対称を使わせたものの、一部に「あなた」も混じってしまい不統一な状態となった。それを虚子が「あなた」に改めて統一しようとした結果、「あんた」という語からかもしだされていた親愛感や地方色は失われ、さらに訂正もれがあったため虚子の手入れは不完全なものとなってしまっている。
(3)B「なあに」を「それでも」に変更
「なあに」―「可哀想に是でもまだ二十四ですぜと云つたら、なあに、あなた二十四で奥さんが御在りなさるのは當り前ぞなもし」この場合の「なあに」は相手の言い分を軽く打ち消しながら自分で納得する気持ちを表しており、副詞の感動詞的用法である。
「それでも」―「可哀想に是でもまだ二十四ですぜと云つたら、それでも、あなた二十四で奥さんが御在りなさるのは當り前ぞなもし」この場合の「それでも」は“そうであっても・だが”という逆接を表す接続詞である。
意味としては大差ないが、「なあに」のほうが相手の言い分を軽くいなすようなニュアンスがあり、積極的な逆接表現を持つ「それでも」よりも語感がやわらかいように思われる。またこれは方言とは一切関係のない変更である。
(4)CD「見て取つた」を「睨〔ね〕らんどる(ぞなもし)」に変更
「睨」に付けられた「ね」というルビは「ねらむ」が方言であることを示している。つまりここでは新たに方言の追加が行われている。しかし「見て取る」には見破る、見て直観的に知る、という意味があるが、それを「睨らむ」にすると問題の意味などを探るために落ち着いて見る、見当をつける、という意味となり、この変更は単純な方言の追加ではなく、意味の変更を伴ったものである。これは、お婆さんが坊っちやんには嫁があるに決まっていると言う場面であるから、文脈上、見破るという意味を持つ「見て取る」の方がおもしろい表現に思える。
(5)I「こゝ随一の」を「こゝらであなた一番の」に変更
先に紹介したように、相原氏はこの部分の虚子の手入れを評価しているが、松山弁の追加はともかく、「随一」を「一番」にしたり、「あなた」という呼びかけ語を付け加えたりすることは漱石の依頼の範囲を超えている。
(6)Q「ぞな。」を「ぢやけれど、」
「ぢやな。」を「の方が優しいが、」
「いいのぢやが―」を「えゝといふぞなもし」に変更
漱石は「堀田さんの方が強さうぞな。然し赤シヤツさんは」と一回文章を切っているのに対し、虚子は「強さうぢやけれど、然し赤シヤツさんは」と、文と文とを逆接の接続詞でつなげており、しかも「然し」を残しているために逆接の表現がだぶってしまっている。漱石が最初に書いたように」堀田さんは……。然し赤シヤツさんは……。夫から優しい事も赤シヤツさん……。生徒の評判は堀田さんの方がいいのぢやが―」というように一つ一つの文を短く切った方が萩野のお婆さんの心情をよく表していると思う。お婆さんは堀田と赤シヤツの良い点をそれぞれ箇条書きのように坊っちやんに提示するものの、結局のところ「どっちがいい人か」という坊っちやんの質問に対する自らの判断は保留しているのである。「いいのぢやが―」という表現のダッシュは、その時点でどちらがいいとも決めかねている様子をよく表している。お婆さんの煮え切らない様子があったからこそ、坊っちやんの「つまり何方がいゝのか」という二度目の質問につながってゆき、お婆さんはやっと「月給の多い方が豪い」という判断を示すのである。それに比べて変更後の「えゝといふぞなもし」という表現からはお婆さんの態度をうかがい知ることはできず、前述のような会話の妙も感じられない。
(7)Rうらなりの言葉が変更されている。
地元の人であるはずのうらなりが方言を使わないで話すことは、坊っちやんが下宿の紹介を頼みに来たときの応対、温泉で二人が顔を合わせたときの会話、うらなりの送別会での挨拶と坊っちやんに退去を勧められた時の答え、などを見ると明らかである。しかし温泉に行くため駅で坊っちやんと出会ったうらなりは、坊っちやんに椅子をすすめられて「いえ御構ひて下さるな」と言うのであるが、それが「いえ御構ふておくれなさるな」と改められているのである。これは方言の添削を依頼された虚子が方言の使用者でないうらなりの言葉にまで手を入れたことを示すものである。変更の内容そのものは「下さるな」も「おくれなさるな」も相手に対する丁寧な要請を意味しており大差無い。これを敢えて変更する必要は認めがたい。
(8)26「大き玄関」を「大きな玄関」に変更
26では虚子は脱字の補いのつもりで「な」を書き加えたと思われるが、「な」がなくても意味は通る。これは虚子が方言の修正だけでなく、気になった点についても訂正していったという一つの証拠と言える。
漱石の原稿には多数の脱字や衍字が見られる。「大き玄関」のほかにも原稿一九枚(初出一八頁一一行 全集二六六頁一二行)には「あとから聞いたら此男は年が年中赤シヤツを着るんだそうだ」とある。正しくは「年がら年中」となるところだがここには虚子の加筆は見られずそのまま放置されている。また原稿二九枚(初出二八頁一四行 全集二七六頁一四行)には「天麩羅を食つちや可笑しか」となっており、本来は「可笑しいか」となるべきところであろうがこれもそのままの形で原稿に残っているのである。
これを単純に脱字と見て文字を補うのが正しいのか、そのままでも十分意味が通じるため手を加えない方が良いのか、という議論はここでは行わない。問題は虚子が方言以外のところ(ここでは脱字の訂正)にまで手を入れていたということ、そしてその手入れは最初から最後まで一貫した方針を持って行われたわけではなく、虚子が気づいたところだけで行われたため、補われなかった脱字が脱字のまま作品に残る結果となっていることである。
五、まとめ
虚子が漱石の書いた『坊っちやん』原稿に手を入れたことは疑問の余地がないと言えよう。漱石の文壇第一作め『吾輩は猫である』は、散文の先輩である虚子が漱石の原稿に大幅に手を入れて発表した作品であるが、『猫』は好評を博し、一回きりで終わるはずだったのが結局十一章まで続いた。『猫』は原稿が全部残っているわけではないので、虚子の手入れがいつまで続いたのかは定かでないが、章を追うごとに漱石は小説の手法にも慣れて、虚子の助けがなくとも完成度の高い作品が書けるようになっていたであろうことは推測できる。まして第二作めである『坊っちやん』に至っては『猫』の成功に裏打ちされた小説家としての自覚と自信が芽生えていたとしても不思議ではない。
その『坊っちやん』に虚子が漱石の依頼の範囲を越えて添削したことにより、作品が多少なりとも「変質」しているのは否めない事実である。漱石は校正刷り、あるいは出来上がった「ホトヽギス」を見て、自分の作品の思わぬ語句が変更されているのに気づいたかもしれない。しかし、もはやそれを正すだけの時間的余裕はなくそのまま出版されたため、虚子の手入れは、“漱石黙認”という結果になったのではないだろうか。もし、作者漱石による十分な校正の時間があったらどうであったか。また、出版までに虚子と意見を交わす機会があったらどうであったか。漱石の自筆原稿により忠実な『坊っちやん』が世間に発表されていた可能性もあるだろう。その意味で現行の虚子の手入れを含む『坊っちやん』を我々がそのままの形で受け入れてよいものか、ということは十分に議論されるべき問題であると思う。
参考文献
平山輝雄編 『現代日本語方言大辞典』 明治書院 平成七年七月
藤原与一 『瀬戸内海方言辞典』 東京堂出版 昭和六十三年七月
日本大辞典刊行会編 『日本国語大辞典』 小学館 昭和五一年