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漱石の雑誌小説本文について
                                    山下 浩
 
目次
Ⅰ 作家の誕生まで
Ⅱ 初出誌の本文と初刊本の本文
Ⅲ 掲載誌、特に『ホトヽギス』について
Ⅳ 初出誌の同一号を多数校合する意義について
          ――本文異同、特に欠字について――
Ⅴ ルビ(ふりがな)について
Ⅵ 収録作品一覧
 
 
Ⅰ 作家の誕生まで
 
  吾輩は新年來多少有名になったので、猫ながら一寸鼻が高く感ぜらるゝのは難有い。
 
 これは『吾輩は猫である』の二回目(續篇)(『ホトヽギス』第八巻第五號(明治三十八年二月十日発行、一頁から四二頁)の冒頭であるが、この一文からは先月号の『吾輩は猫である』「初回」で爆発的なヒットをとばした漱石のたしかな自信と余裕を感じることができる。それまでに漱石が『ホトヽギス』誌上に書いてきたものからは、このような文の中央にしっかりと読点「、」をうち一呼吸をおいて、文末を句点(。)でしめるよう文は見あたらないからである。
 漱石は、二年数ヶ月後の明治四十年六月二十三日、朝日新聞紙上に『虞美人草』を発表し、プロ作家として正式にデビューするが、それまでにも『吾輩は猫である』を含む長短十数編の小説を執筆していた。先刻承知の通りである。
 しかしこれらの十数編は、教職という本業に携わりながらのいわば「余技」であって、これら漱石の「余技」を語る際に欠くことのできないのが『ホトヽギス』である。『ホトヽギス』は作家漱石の育ての親であり、さまざまな実験の場でもあった。当復刻全集収録作品の大半を『ホトヽギス』掲載作品が占めていることからもそれは明らかである。
 『吾輩は猫である』(以降『猫』と略記する)以前にも漱石は俳句の他にいろいろな文章を『ホトヽギス』に載せている。早いところでは英国留学以前の熊本時代の『英国の文人と新聞雑誌』(第二巻第七號、明治三十二年四月二十日発行)、及び『小説「エイルヰン」の批評』(第二巻第十一号、明治三十二年八月十日発行)であるが、しかしこれらは創作というよりも英文学者たる漱石の研究論文であった。
 漱石が英文学研究から離れて、「書きたいから書いた」『ホトヽギス』掲載の比較的長い文章が、英国留学中と帰国後に書いた『倫敦消息』(「其一」は第四巻第八號(明治三十四年五月三十一日発行、十五頁から二十頁)、其二、其三は『ホトヽギス』第四巻九號(明治三十四年六月三十日発行、十一頁から二十四頁)と『自転車日記』(第六巻第十號(明治三十六年六月二十日発行、二十一頁から二十九頁)であるが、これらの二点は『猫』を発表するまでの漱石を考える上で見過ごせないように思われる。本復刻全集が、第二巻に『倫敦塔』以前のこれらの小品を収めたのは、漱石の英国留学百周年を記念するためだけではないのである。
 『倫敦消息』は『猫』の文体を彷彿とさせる。よく見ると、『倫敦消息』には読点「、」がほとんどないが、これが『猫』「初回」になると、山会の朗読用に書かれたとはいうものの、二段ベタ組の十五頁に通常の読点を一つも使っていないのである。
 他方、留学からの帰国第一作といえる『自転車日記』においては、森鷗外『舞姫』の自筆草稿や初出『國民之友』に似て、句点(。)の一つもない、読点(、)だけの古めかしい文体となっている。漱石はこの時期になぜこのような文で書いたのであろうか。『倫敦消息』との違いはあまりにも大きい。
 漱石は、『猫』(續篇)に至って、やっと点と丸の両方を備えた文を書くようになった。
 
 
Ⅱ 初出誌の本文と初刊本の本文
 
 漱石の小説は、他の多くの作家の小説と同様に、印刷・出版されて不特定多数の読者に読まれることを前提に執筆されている。『虞美人草』からはじまる朝日新聞掲載の新聞小説においてはとりわけそうであった。朝日新聞に掲載された『彼岸過迄』の予告の中で漱石は次のように書いている。
 
  東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上つてゐる。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、其の何人かの大部分は恐らく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くたゞの人間として大自然の空気を新卒に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈だらうと思ふ。自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる。
 
 朝日新聞に入社する前に書かれ、『ホトヽギス』等の雑誌に掲載された『野分』までの小説も、基本的には不特定多数の読者を前提にしていた。本文批評上も、これらの本文は共に自筆原稿からダイレクトに活字化された「初出形」であって、その多くが自筆原稿ではなく初出形からリプリントされる初刊本の本文とは、後述するように、基本的な性質を異にする。
 しかし雑誌に掲載の本文の場合は、新聞に掲載される場合とはいささか事情を異にする点もある。まず、雑誌の多くは新聞ほど多くの読者を期待できるわけではないということである。二巻に収録の『琴のそら音』を掲載した『七人』のように小山内薫ら当時の東大生の同人誌といっていいようなものもある。『倫敦塔』と『趣味の遺伝』を載せた『帝国文学』にしても、東大関係者間の雑誌であった。
 しかし執筆者の立場からは、雑誌の方が新聞よりも執筆上の制約が少なくて書きやすい場合もあった。新聞であれば、すべてが総ルビになることで端的に示されるように、使用できる用語・用字その他多くの点で没個性的な本文になりがちである。
 雑誌の場合は、とりわけ『ホトヽギス』を主たる発表の場にした漱石の場合には、自由な文体を駆使できて、さまざまな試みを行うことができた。拙著『本文の生態学』で指摘したように、漱石の自由奔放な文字遣い「漱石的表現」は、『ホトヽギス』という発表の場があったからこそできたことである。
 他方、単行本に対しての雑誌・新聞に共通する初出誌本文一般の特徴としては、次のような点をあげることができよう。
 何よりも先ずは、自筆原稿を元にしたダイレクトな活字化だということだが、これに対して初刊本の本文はほとんどがすでに活字化されている初出誌からのリプリントである。これにプラスして雑誌の場合は、決まった月日に発行する必要があるため、編集や印刷・校正に許される時間が単行本よりも限られていた。それは同一誌の同一号を校合してみても、欠字の有無を別にすれば、雑誌の方が単行本に比べて「印刷中異同」(Press Variants)が極端に少ないことからもあらわれている。本文上この違いの意味はひじょうに大きい。
 自筆原稿からダイレクトに印刷された初出本文においては、「誤植」であれ何であれなんらかのかたちで自筆原稿を反映しているといえる。その点でそれ以降の印刷物の誤植とは違うのである。
 例えば『坊っちやん』の自筆原稿(六章)の中で、山嵐に対しては「あした学校へ行つたら、壱銭五厘返して置かう」となっているが、清に関しては以下のように漱石一流の書き分けがなされている。
 
  おれは清から三円借りて居る。其三円は五年経つた今日迄まだ帰さない。返せないん ぢやない、帰さないんだ。清は今に帰すだらう抔と他人がましい義理立てはしない積だ。 こつちがこんな心配をすればする程清の心を疑る様なもので、清の美しい心にけちを付けると 同じ事になる。帰さないのは清を踏みつけるのぢやない、清をおれの片破れと思ふからだ。
 
 この「帰す」が『ホトヽギス』を含むそれ以降の印刷物ですべて「返す」に変更されてしまったは承知の通りである。しかしこの前段となる一章中程の「此三円は何に使つたか忘れて仕舞つた。今に帰すよと云つたぎり、帰さない。今となつては十倍にして帰してやりたくても帰せない。」では、二つ目の「帰さない」だけが、かろうじて誤植の多い『ホトヽギス』校正者の目を逃れて初出誌で自筆原稿の跡を残すことができた(六頁五行)。単行本以降ではすべてが消えている。
 自筆原稿からダイレクトに印刷された初出誌においては、誤植かどうかの判断は慎重でなければならないが、誤植であることが本文校訂上幸いすることもある。自筆原稿が現存しない本文においては特に原稿のかたちを推定する上で役に立つ場合もある。
 
 
Ⅲ 掲載誌、特に『ホトヽギス』について
 
(1)当時の雑誌の判型(菊判)について
 
 当復刻全集が収録する作品を掲載した初出誌、『ホトヽギス』『帝国文学』『学鐙』『七人』『中央公論』『新小説』は、いずれも菊判と呼ばれる当時の標準的な判型である。菊判とは、長辺が九三九ミリ、短辺が六三六ミリの全紙(シート一枚)のことであるが、これを短辺で三回折ってつくる八葉(十六頁)で一折丁の八折判 (Octavo)書籍の呼称でもある。今日のA五判よりはやや大きく、長辺(天地)がほぼ二一八ミリ、短辺は一五二ミリであるが、この数字は製本その他の理由で多少の違いが出てくる。ついでながら欧米では、全紙を一回折って二葉の折丁とするのを二折判(Folio)、二回折って四葉の折丁とするのを四折判(Quarto)と呼ぶ。
 菊判には全紙の表裏に各々八頁が印刷される。すなわち一頁のある側「表版」には、一、四、五、八、九、十二、十三、十六頁が刷られ、二頁のある「裏版」には、二、三、七、八、十、十一、十四、十五頁が刷られる。今回復刻する初出誌はいずれも紙型を用いない直刷(活字そのものに直接インキを付けて印刷する最も基本的な印刷法)で印刷されたと思われる。この八頁の頁群は、印刷や校正における基本的単位となるので、書誌学・本文研究においては、個々の頁が表版、裏版のどちらにに属しているかを常に認識しておく必要がある。この点は個々の葉がどの折丁に属しているかの認識と同等あるいはそれ以上に重要である。
 
(2)正式の標題はどこからとるのか
 
 標題が目次と本文の部分(これをヘッドタイトルという)で違った場合は、後者のヘッドタイトルが正式の標題となる。目次の標題は通常ヘッドタイトルからリプリントされるからである。『吾輩は猫である』「初回」では、ヘッドタイトルに対して目次が「我輩は猫である」となっているがこちらは誤植である。
 作品によっては本文の前に独立した一葉の扉を備えたものもあるが(『ホトヽギス』の附録『幻影の盾』『坊っちやん』『野分』など)、この標題も目次と同様にヘッドタイトルからのリプリントと考えてよい。『幻影の盾』では、橋口五葉による「扉畫」の標題が『まぼろしの盾』とひらがなになっているが、これは『心』の初刊本で「背」(Spine)が「こゝろ」となっているのに似て、デザイン上の配慮だと思われる。
 なお、『カーライル博物館に藏する遺書目録』(二巻収録)の標題であるが、所蔵が確認されている初出誌『学鐙』第九年第二號(明治三十八年二月十五日発行、八頁から二六頁)を十数部見てみると、その大半(国会本、東京大学本、筑波大学本、日本近代文学館本、早稲田大学本、天理図書館本、北海道大学本、東洋大学本等)では『カーライル博物館 (一字欠)にする遺書目録』となっており、意味が通らない。『カーライル博物館に藏する遺書目録』と正しく印刷されているのはほんの数部(大谷大学本、金沢大学本、都立大学本)であった。同号の目次では誤植混じりの「カーライル遺書目次」となっている。
 
 
 
「内容見本にある両方の写真をここへ」
 
 
 
 旧漱石全集では、多数の初出誌を校合していないので当たり前ではあるが、正確な標題が示されず、『カーライル博物館所藏 カーライル藏書目録』となっていた。荒正人編『漱石文学全集』においても、別巻「研究年表」やその他(二巻六〇九頁)をみると『カーライル博物館所藏カーライル藏書目録』と言及されている。
 新漱石全集においては、『カーライル博物館』『学鐙』第九年第一號(明治三十八年一月十五日発行、一頁から八頁)が収録されている二巻をみてみると、この小品の「注解」四一七頁では簡略標題で「カーライル藏書目録」と言及されており、「後記」の四七九頁には以下のような文がある。
 
  本文が完結した後に、小字で「カアライルの旧居に所藏するカアライル遺書目録は次 号に掲ぐべし」とある。次号(第九年第二号)にその目録(本全集第二十七巻「別冊(下)」 収録)が掲載された。
 
 しかし新漱石全集の二十七巻「別冊(下)」のどこをみてもこの「目録」がみあたらないのである。聞いてみれば、表向き別な理由(漱石自身が作成したものではなく既成のリストからのリプリントだから)によって「目録」そのものの収録を止めたとのことである。しかし、自筆原稿や初出誌をそのまま「翻刻」する方針の新漱石全集として、欠字のままの標題を表示することができなかったというのが本音であろう。
 仮に作成経緯云々を問題にするにしても、漱石の名前で発表され、上の引用にもあるように『カーライル博物館』の末尾で「カアライルの舊居に所藏するカアライル遺書目録は次號に掲ぐべし」との予告まで出され、両者の関係が、大森一彦「漱石の『カーライル藏書目録』考」『書誌索引展望』(第十四巻、第四号、一九九〇年十一月)の指摘「本来一体のものとして構想されたものであり、掲載誌のスペースの都合さえつけば同時掲載されたのではないかと想像される」といえる以上、これをすべて省略するというのは行き過ぎであろう。漱石全集の編纂史上最大の功労者である小宮豊隆も次のように述べている。「…第一漱石のカーライルに對する興味がよほど強く動いてゐるのでない限り、漱石が「カーライルの舊居に今でも保存してあるカーライルの遺書の目録を中には面白く思ふ人もあるだろうと思つて書寫して次に出す」といふやうな、面倒極まる仕事をする筈がないのである」(新書版漱石全集、第三十三巻、昭和三十二年九月二十七日発行、一六八頁)。
 なお作者名であるが、『琴のそら音』(二巻収録)と『野分』(五巻収録)において、ヘッドタイトル、目次、扉の部分のすべてで「嗽石」となっている。これはおそらくは自筆原稿へ編集関係者が作者名を書き込んだためであろう。『坊っちやん』の自筆原稿では、漱石とは異なる筆跡で「夏目嗽石」と書き込まれている。しかしこの場合は幸い『ホトヽギス』において正しく「漱石」と印刷されている。
 
 
(3)『ホトヽギス』について
 当復刻全集収録作品を最も多く掲載した『ホトヽギス』は、月刊誌で十月発行分を一号として翌年の九月までに基本的には十二回発行した。しかし臨時增刊も出し、年間で十三冊発行が少なくなかった。
 『ホトヽギス』の頁は、『帝国文学』等に比べて地味で、組みの体裁は基本的に二段ベタ組、二十四字詰二十一行からなっている。印字幅は縦十七・五センチ、横十二センチ。しかし巻ごとに表紙の模樣、号ごとに色を変える趣向も凝らしていた。時々別丁として設けられた附録は本体とは違い印刷費のかかる組み方であった。
 『ホトヽギス』発行の経緯については子規が第四巻第壹号(明治三十三年十月三十日発行)の巻頭文「ホトトギス第四巻第一號のはじめに」(一頁から六頁)で興味深いエピソードをまじえ詳しく述べている。漱石作品の読者にとっても熟読に値すると思われるので、全六頁を復刻して添付する。
 
 
 
 
「注意:割付がうまくあえばここへ『ホトヽギス』を復刻。さもなくば、この論文の最後へ。」
 
 
 
 
 
Ⅳ 初出誌の同一号を多数校合する意義について
          ――本文異同、特に欠字について――
 
 まず最初に復刻本と校訂本の違いについて述べておきたい。復刻本とは、同一版・号のできるだけ多くの部数を校合し、印刷物としての最終的「完成形態」を見極めるのが役目である。その復刻本を拠り所にして本文の誤植の類をいちいち精査するのが校訂本の仕事となる。
 漱石の時代の単行本を、同一版・同一号で複数校合してみると、大小さまざまな本文異同をひんぱんに発見する。この中には印刷の途中誤植その他の理由で意図的に変更された、英語でいう"Stop Press Correction"も含まれる。単行本は、紙型を製作しないで直接活字にインキを付けて刷る直刷が多かった雑誌の場合とは違い、ほとんどが紙型による鉛版(えんばん)(Stereotype)からの印刷であるが、象眼処理に拠ったと思われる一字あるいは数字単位の異同から、数行がそっくり組み直された(その部分は新たな紙型の製作)ような例までひんぱんに認められる。具体的な例としては、高野彰の論考「書誌とは」『日本近代書誌学協会会報』第六号(一九九九年十一月二十日発行、二十五頁から二十九頁)を参照されたい。
 しかし雑誌の場合には、同一の号を多数校合してみても、単行本のように印刷中に本文を変更する類の異同は少ない。一つには発行までに許される時間的制約が大きいからであろう。雑誌の本文には、直刷が多かったことと関係すると思われるが、紙型に拠った単行本よりも欠字の多さの方が目立つようである。
 今回の復刻全集に記録した欠字の中でとりわけ注目されるのは、『カーライル博物館に藏する遺書目録』における標題中の欠字と『薤露行』の一節における欠字である。詳しくは、二巻の解題を参照されたい。
 なお、校合部数については十部を基本とした。それ以上校合できたものもあるが、『琴のそら音』を掲載した『七人』のように四部しかその存在を確認できなかった雑誌もある。なお、十部の校合とはいっても、その全頁、全行を完璧に校合できたともいえない。多々漏れがあることを恐れる。残念なのは、十部以上を調べてもなお欠字を埋めることができなかった箇所が少なくないことである。これらの欠字箇所はさらに多くの部数を校合することによって減少するではあろうが、今回の仕事としては限界であった。
 
 
Ⅴ ルビ(ふりがな)について
 
 ふりがなを意味するルビという語は、宝石のルビーと同じ英語のrrubyから来ている。これに用いる七号活字の寸法(本文に用いる五号活字のちょうど半分で5.5ポイントに相当する)がルビー活字とほぼ同じ大きさであったところからこのように呼ばれるようになった。日本語の表記は、かなと漢字の二種類の文字を使うという点で独特であるが、ルビの存在はそれをさらにユニークにしている。
 総ルビ付きの本文は、明治初期の「小新聞」あたりからはじまり、第二次大戦の頃まで、新聞にしろ雑誌にしろ一般向けの読みものにおいては当たり前であった。「総ルビ」はさまざまなメリットを持っている。第一に、漢字の読めない「無学」な人でもものが読め、それによって漢字を学ぶことができたということである。このあたりについては土屋礼子氏が、「ふりがな論の視座」『現代思想』(一九九八年八月号)において興味深い論を展開している。氏は、「小新聞の文章ではふりがなが主体であり、漢字は従であった。……ふりがなではなく、むしろ「ふり漢字」なのである」と指摘し、次にこのふりがなが展開した自由な読み方の例として、淫奔(みだら)、雑踏(こみあひ)、会計(かんぜう)、得意(もちまへ)の、のような例をいろいろとあげている。この点は漱石の総ルビ本文においてもそれなりにあてはまることである。漱石は新聞小説の執筆において、この dual な表記法をさらに深めて、微妙な意味を読者に伝える手段として活用したように思われる。
 他方、総ルビ本文を組む植字職人や活字製造者の立場からは、大変な仕事量であった。新聞社では、その必要上、早くも明治三十年代に活字にルビの付いたいわゆるルビ付活字を開発・製造し、『虞美人草』にはじまる漱石の新聞小説の本文においてもルビ付き活字が使われている。しかし一個の漢字に対しても読み方によって数種類の活字を作る必要がある以上、ルビ付活字を揃えるには膨大な投資を必要とした。
 雑誌においては、当復刻全集二巻に収録の『草枕』を載せた『新小説』のような総ルビ誌においても、まだルビ付活字は使われていなかった。『草枕』の本文は、ルビ無し活字にルビを組み合わせたものである。
 ルビ付き活字かルビ無し活字かを見分ける一般的な方法であるが(例外もある)、「智(ち)に働(はたら)けば」の「働」のようなルビを三字必要とするような場合、この三字が「働」の全角のスペースにおさまらず、「働(はたら)け」のように下にずれていればルビ無し活字とみなしてよい。『草枕』の場合三字のルビはすべて全角の幅からはみだしている。『二百十日』十八頁の「温泉(ゆ)」のような例もルビ付活字ではありえない。漱石の新聞小説においては、最初の作品であった『虞美人草』においても、三字のルビが漢字の全角の幅の中にしっかりと収まっている。ルビと送りがなの重複がときに見られるが、これは使用されるルビ付活字と原稿の送り方が異なる場合に生じやすい現象である。
 
 
Ⅵ 収録作品一覧
 
 当復刻全集には以下の作品が収録されている。詳しくは各巻の解題を参照されたい。
 
一巻
『吾輩は猫である』
 『吾輩は猫である』は『ホトヽギス』へ以下のように掲載された。
 「初回」 第八巻第四號(明治三十八年一月一日発行、一頁から一五頁)。
 續篇)  第八巻第五號(明治三十八年二月十日発行、一頁から四二頁)。
 (三) 第一百號、第八巻第七號(明治三十八年四月一日発行、一頁から三九頁)。
 (四) 第八巻第九號(明治三十八年六月十日発行、一二頁から三七頁)。
 (五) 臨時刊、第八巻第十號(明治三十八年七月一日発行、一頁から二五頁)。『ホトヽギス』は月刊で通常年十二冊の発行であるが、第八巻ではこの臨時增刊を加えて十三冊発行された。
 (六) 第九巻第一號(明治三十八年十月十日発行、二頁から二十九頁)。最後に(九月二十八日)の日付がはいっている。
 (七)(八) 第九巻第四號(明治三十九年一月一日発行)に同時掲載。(七)は一〇〇頁から一二五頁の上段まで、(八)は(七)に続く一二五頁下段から一五五頁まで。 (九) 第九巻第六號(明治三十九年三月十日発行、一頁から三三頁)。
 (十) 第九巻第七號(明治三十九年四月一日発行、一頁から四〇頁)。
 (十一) 第九巻第十一號(明治三十九年八月一日発行、一頁から五三頁)。
 
 
二巻
『倫敦消息「其一」』『倫敦消息 其二』『倫敦消息 其三』
 「其一」は『ホトヽギス』第四巻第八號(明治三十四年五月三十一日発行、十五頁から二十頁)、其二、其三は『ホトヽギス』第四巻九號(明治三十四年六月三十日発行、十一頁から二十四頁)へ同時掲載。
 
『倫敦より』
『ホトヽギス』第五巻第五號(明治三十五年二月十日発行、三十頁から三十一頁)。
 
『自転車日記』
『ホトヽギス』第六巻第十號(明治三十六年六月二十日発行、二十一頁から二十九頁)。
 
『倫敦塔』
『帝国文学』第拾壹巻第壹号(明治三十八年一月十日発行、一〇頁から三七頁)。
 
『カーライル博物館』
『学鐙』第九年第一號(明治三十八年一月十五日発行、一頁から八頁)。
 
『カーライル博物館に藏する遺書目録』
『カーライル博物館』と同じ『学鐙』第九年第二號(明治三十八年二月十五日発行、八頁から二六頁)。
 
『幻影の盾』
『ホトヽギス』「第一百號」第八巻第七號(明治三十八年四月一日発行)「附録、一頁から三五頁」。
 
『琴のそら音』
『七人』七號(明治三十八年五月一日発行、二五頁から六九頁)。
 
『一夜』
『中央公論』第二十年第九號(明治三十八年九月一日発行、六五頁から七五頁)。
 
『薤露行』
『一夜』と同じく『中央公論』の二百號、第二十年第十一號(明治三十八年十月一日発行、一五五頁から一八六頁)。
 
『趣味の遺伝』
『倫敦塔』と同じく『帝国文学』の第拾弐巻第壹号(明治三十九年一月十日発行、二〇頁から八七頁)。
 
 
三巻
『坊っちやん』
『ホトヽギス』第九巻第七號(明治三十九年四月一日発行)「附録、一頁から一四八頁」。
 
 
四巻
『草枕』
『新小説』第十一年第九巻(明治三十九年九月一日発行、一頁から一四四頁)。
 
 
五巻
『二百十日』
『中央公論』第二十一年第十號秋期大附録號(明治三十九年十月一日発行)の「大附録」(一頁から七四頁)。
 
『野分』
『ホトヽギス』第十巻第四號(明治四十年一月一日発行)の「附録、一頁から一七三頁」。