TOP

『坊っちやん』解題
 
                                    山下 浩
 
 『坊っちやん』は『ホトヽギス』第九巻第七號(明治三十九年四月一日発行)の「附録、一頁から一四八頁」に掲載された。漱石の小説が『ホトヽギス』の附録として掲載されるのは『幻影の盾』(当復刻全集第二巻に収録)に次いで二回目となる。その後は『野分』が第十巻第四號(明治四十年一月一日発行)の「附録、一頁から一七三頁」として掲載された。なお「附録」とは、『ホトヽギス』に限らず当時の他の雑誌でもよく見かけるが、今日のような「別冊附録」の形態をとるものではない。印刷物としては「別丁」のかたちをとっているが、実態としては今日の雑誌の「特集」に近いものである。
 『ホトヽギス』第九巻第七號は、『野分』を載せた第十巻第四號(明治四十年一月一日発行)と共に最も分厚い冊であるが、かなり増刷したらしく、『野分』を予告した第十巻第三號の「次號豫告」欄にも、「坊っちやん號。殘部多からず、御入用の方は至急御申込を乞ふ。郵税共四十銭。」とある。
 『ホトヽギス』について詳しくは、本巻収録の別稿「漱石の雑誌小説本文について」を参照されたい。
 『坊っちやん』には、『ホトヽギス』の印刷に用いられた漱石の自筆原稿が現存しており(精巧な復刻版も存在する)、その中には後述するような高浜虚子の本文への添削と共に印刷所への朱筆が書き込まれている。本文の組み方については次のような指示がなされている。「別丁 段ヌキ 四分アキ 三十九字詰十六行」
 本体とは別な組み方をせよとの指示である。それが「別丁」であり、「段ヌキ」とは本体の二段組に対して一段組にせよとの意味。その結果、一行は三十九字詰となり、一頁は十六行となる。さらに、「四分アキ」とは、本体のベタ組(活字と活字の間を空けない組み方)に対して活字間に全角の四分の一のスペースを入れる組み方で、ベタ組よりも読みやすくなる。ただしその分印刷所の手間はかさみ、印刷費用は割高、頁数も増える。ただでさえ漱石の原稿が遅れていたので、印刷所のやりくりはたいへんであった。『坊っちやん』の執筆・印刷過程についての詳細は、拙著『本文の生態学――漱石・鷗外・芥川』(日本エディタースクール出版部)の特に二章を参照されたい。
 『ホトヽギス』の本文を自筆原稿と比べてみると、誤植が少なくないのがわかる。頁を割り振られた文選工の違いによって誤植の多さや間違い方に違いが生じていることも判明する。同時に連載されていた『吾輩は猫である』の本文に比べても正確さで劣るようである。ただし当時の他の雑誌の本文と比べれば特別に劣っているわけではない。『ホトヽギス』は当時の雑誌のステータスとして一流とはいえなかったが、本文の正確さにおいてはなかなかの水準であった。
 『坊っちやん』の本文において、句点(。)は全角となっているが、読点は(「江戸っ子」のような促音の「つ」もひんぱんに)、『幻影の盾』と同様に「四分アキ」の間に入れられている。これは漱石の自筆原稿――句点は通常一マス分の中に入れるのに対して、読点はマスとマスの境界線上にうつ――に対応した印象で、いくぶん自筆原稿の雰囲気を伝えている。単行本の『鶉籠』もほぼ同じ組み方である。単行本の『吾輩は猫である』や『漾虚集』になると、読点と共に句点までが四分アキにはいっているが、当時のハイカラな組み方のようである。
 これまで『坊っちやん』の自筆原稿、特に方言に対する高浜虚子の添削については、一部の漱石研究者以外にはほとんど知られていなかった。しかし朝日新聞がこのことを平成十二年七月二十日(朝刊)の社会面トップ記事として報道し、広く認識されるようになった。『ホトヽギス』の本文は、虚子が添削したままを活字化しているのである。
 『坊っちやん』の本文を考える上でこの添削の問題は重要なので、朝日新聞の報道で紹介された渡部江里子の筑波大学学位取得論文(平成七年度)を当巻に掲載することにした。この論文は、中間発表の段階で拙論「新『漱石全集』(岩波書店)の本文を点検する」『言語文化論集』第三十九号(一九九四年九月二十五日発行)の中に掲載しているが、その後の考察で若干の違いが生じている。『ホトヽギス』本文との照合のために該当個所の頁・行を明示した。
 なお、朝日新聞の同報道にある佐藤栄作氏は、「『坊っちやん』原稿への虚子の手入れについて」『愛媛国文と教育』第三十三号(平成十二年十二月)、「『坊っちやん』原稿の「なもし」――『坊っちやん』論の前に」『國文學』(學燈社 平成十三年一月号)その他の論考においてこの問題をさらに深めている。必読文献である。
 『坊っちやん』の復刻に際しては、(1)の十二部を校合し、(2)に示すような異同・欠字の類を発見した。復刻の底本には保存状態の良好な山下所蔵本を用いたが、欠字その他に問題があって他本の頁を用いる必要がある場合には、その旨を(2)の該当箇所に明記してある。なお(2)で参照した初版『鶉籠』は山下所蔵本と市販復刻版の二点である。
 
(1)(共立)共立女子大学附属図書館、(慶応)慶應義塾大学三田メディアセンター図書館、(国会)国立国会図書館、(早大)早稲田大学中央図書館、(都立)東京都立大学附属図書館、(東女)東京女子大学附属図書館、(日芸)日本大学芸術学部附属江古田図書館、(一橋)一橋大学附属図書館、(広島)広島大学附属図書館、(明大)明治大学附属図書館、(明文)東京大学法学部附属近代法政史料センター明治新聞雑誌文庫、(山下)山下浩
 
(2)異同箇所(□印は欠字その他問題の箇所をさす)
 
・二一頁五行
 所だ。十五畳   東女 一橋 山下
 所だ□十五畳   共立 慶応 国会 早大 都立 日芸 広島 明大 明文
 
・二七頁一五行
 なつた。□□ある日   校合本すべてで全角二字分のアキとなっているが、初版でもこのとおり。自筆原稿が漱石の筆跡で「二字アケル」としているからである。
 
・五八頁最終行
 □密に   校合本すべてで欠字。初版は「秘」。
 
・六二頁一四行
 教場へ出た   東女 一橋 明大 明文 山下
 教場へ□た   共立 慶応 国会 早大 都立 日芸 広島
 
・七一頁二行
 云つて着席   国会 都立 東女 一橋 山下
 云つ□着席   共立 慶応 早大 日芸 広島 明大 明文
 
・七四頁五行
 御座いませう   国会 都立 東女 一橋 山下
 御□□ませう   共立 慶応 早大 日芸 広島 明大 明文
・七四頁八行
 くれた。□□其夜   校合本すべてで全角二字分のアキとなっているが、初版では、ここからを新しい段落にしている。自筆原稿ではここは一字アキ。
 
・八六頁最終行
 車室へ   共立 慶応 国会 都立 日芸 一橋 広島 明大 明文 山下
 車□へ   早大 東女
 
・九二頁最終行(この頁には広島大学本を使用)
 充分です。   共立 慶応 広島 明大
 充□です。   国会 早大 都立 東女 日芸 一橋 明文 山下
 
・九三頁八行(この頁には早大本を使用)
 尤も校長に   共立 慶応 国会 早大 都立 広島 明大
 尤も□□に   東女 一橋 山下
 尤も□長に   日芸 明文
 
・一四一頁一二行
 洋(ら)燈(ぷ)   校合本すべてでルビ「(ら)ん(ぷ)」が落ちている。