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『吾輩は猫である』解題
山下 浩
『ホトヽギス』第八巻第三號(明治三十七年十二月十日発行)の「次號豫告」に次のような題の作品が他の六点といっしょに予告されている。
▲吾輩は猫である。 漱石
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」といふ冒頭より滔々十餘頁に渉る一匹の猫の經 ?談にして、寓意深淵、警句累出、我文壇始めて此種の好諷刺文に接したりといふべし。
この「次號豫告」が功を奏したのであろうか。翌月の『ホトヽギス』第八巻第四號(明治三十八年一月一日発行、一頁から一五頁)に掲載された『吾輩は猫である』「初回」は、短い読み切りの短編であったにもかかわらず大好評を博し、漱石はその後否応なしに十一回までを書き次ぐ羽目になった。長編小説『吾輩は猫である』(以降『猫』と略記する)の成立である。
『猫』「初回」の発表は、日露戦争「旅順開城」を祝う号外が舞う最中の出来事であったが、浅井默語(忠)のえがく「占領地の新年」など「新年五題」の挿絵五点が当時の時代状況を生々しく伝えている。『猫』の発表を演出する上でも効果的だったと思われる。なお、目次の標題には「我輩は猫である」(誤植)とあるが、当時においても「我輩」の方が一般的な書き方のようであった。
『ホトヽギス』は、この小説の掲載を大きな契機として、購読者の限定された「俳諧雑誌」から「文學雑誌の肩書」を持つ有名雑誌へと成長することになる。『ホトヽギス』は、十月発行分を第一号として翌年の九月までに通常十二号を発行する月刊誌であったが、この雑誌について詳しくは当復刻全集第三巻に収録の「漱石の雑誌小説本文について」を参照されたい。
『猫』「初回」の本文の一番の特徴は、読点「、」がないことである。『倫敦消息』の文体を思い出させる。一つには、この作品のそもそもが印刷の原稿というよりも「山会」の朗読用に書かれたためではあったが、この点については「漱石の雑誌小説本文について」を参照されたい。
自筆の原稿には、『ホトヽギス』の原稿になる前に高浜虚子の手による添削が相当加わっていたようであるが、漱石はこれを清書せずにそのまま印刷にまわしたと思われる。なお、この初出本文の信頼度・問題点については、ここでくりは返さないので拙著『本文の生態学――漱石・鷗外・芥川』(日本エディタースクール出版部)の特に一章を参照されたい。
(續篇)つまり第二回は、次号の第八巻第五號(明治三十八年二月十日発行、一頁から四二頁)に掲載された。「吾輩は新年來多少有名になったので、猫ながら一寸鼻が高く感ぜらるゝのは難有い。」という書出しではじまるが、漱石の自信と余裕が感じられる文章である。十一頁と十二頁では、通常の二十一行組から二十三行組となっており頁全体が詰まっているが、これは十頁の上段と下段を部分的に占める挿絵「バルザツクの肖像」を本文の割付後に追加したためであろう。
(續篇)の後は、回数が明記されて以下のように十一回まで続いた。
(三)は第一百號(第八巻第七號)、明治三十八年四月一日発行、一頁から三九頁に掲載された。百二十頁からなる本体に『幻影の盾』の附録が合わさった堂々たる一冊となっている。
(四)は第八巻第九號、明治三十八年六月十日発行、一二頁から三七頁に掲載された。『猫』が一頁から始まらなかったのはこの回がはじめてである。
(五)は臨時增刊(第八巻第十號)、明治三十八年七月一日発行、一頁から二五頁に掲載された。『ホトヽギス』は月刊で通常年十二冊の発行であるが、第八巻はこの臨時增刊を加えて十三冊発行された。
(六)は第九巻第一號、明治三十八年十月十日発行、二頁から二十九頁に掲載された。最後に(九月二十八日)の日付がはいっている。
(七)、(八)は第九巻第四號、明治三十九年一月一日発行、に同時に掲載された。(七)は一〇〇頁から一二五頁の上段まで、(八)は一二五頁下段から一五五頁まで。(八)の最後には(十二月十七日)の日付がはいっている。
(九)は第九巻第六號、明治三十九年三月十日発行、一頁から三三頁に掲載された。多数の挿絵がある。
(十)は第九巻第七號、明治三十九年四月一日発行、一頁から四〇頁に掲載された。
(十一)は、第九巻第十一號、明治三十九年八月一日発行、一頁から五三頁に掲載された。
漱石は、「大学の教壇に立つかたわら、胸中の鬱憤を吐きだすような形で」(竹盛天雄)『猫』を執筆したわけだが、そうした漱石の、思いっきりはめを外した様子は、「猫子」が「八疋」生まれたり、「小供」が奥座敷で「何と仰やる御猿さん」を歌ったり、「御茶の味噌の女學校」へ行ったりもする「漱石的表現」を通してもよくみてとれる。しかしこうした漱石の個性的な表現の多くは、初出誌にまでは伝えられたが、それ以降の版で「無学」な編集者・印刷所によって平凡なものに改竄されてしまう。その意味でも『ホトヽギス』で『猫』を読む価値は大きい。このあたりに関しては『本文の生態学』以外に拙論「本文批判の問題」『夏目漱石事典』(學燈社)を参照されたい。
『吾輩は猫である』の復刻に際しては、(1)の十二部を校合し、(2)に示すような異同・欠字の類を発見した。復刻の底本には保存状態の良好な山下所蔵本を用いたが、欠字その他問題があって他本の頁を用いる必要がある場合には、その旨を(2)の該当箇所に明記してある。なお(2)で参照した初版本は山下所蔵本と市販復刻版の二点である。
(1)(共立)共立女子大学附属図書館、(慶応)慶應義塾大学三田メディアセンター図書館、(国会)国立国会図書館、(早大)早稲田大学中央図書館、(都立)東京都立大学附属図書館、(東女)東京女子大学附属図書館、(日芸)日本大学芸術学部附属江古田図書館、(一橋)一橋大学附属図書館、(明大)明治大学附属図書館、(明文)東京大学法学部附属近代法政史料センター明治新聞雑誌文庫、(山下)山下浩、(立教)立教大学附属図書館
(2)異同箇所(□印は欠字その他問題の箇所をさす)
「續篇」
・九頁下段一八行
見ると□看板に 十二部のどれをみてもなんとか「其」と判読できる程度。初版本が「見ると看板に」となり「其」を略しているのはこのためであろう。
・一七頁下段一六行(この頁には慶応本を使用)
過去□見立てた 共立 国会 早大 日芸 明大 山下
過去に見立てた 慶応 都立 東女 一橋 明文 立教
・同頁下段一七行
主人□自分ながら 共立 国会 早大 日芸 山下
主人は自分ながら 慶応 都立 東女 一橋 明大 明文 立教
・三九頁上段一五行
始めて□解する 「理」。校合本すべてでなんとか推定できる程度。
・同頁同行
出來たんだが□脊中 初版は「、」となっている。
・同頁同一六行
するのも□眼が 「、」の欠と思われるが、初版にはなし。
・四〇頁下段五行
心持ちだ□ついうと\/として□ 初版では前の□が「。」後の□が「、」。
(三)
・七頁上段一三行
「ほ□とに」 「ん」。校合本すべてでなんとか読める程度。
(四)
・二六頁下段一行
知つてるか□ カギ括弧(」)。
・同頁同二行
様なものだ□ 「。」。初版は句点なしで次行へ続けている。
・同頁同一七行
□さう\/ (「)。
・同頁同二〇行
行つたら・・□ (」)。
(五)
・五頁下段最終行(この頁には都立大本を使用)
一代の畫工が 都立
一代の□工が 国会 一橋 明大
□代の□工が 共立 慶応 早大 東女 日芸 明文 山下 立教
・二〇頁下段一四行
居るさうだ 共立 慶応 国会 早大 東女 日芸 一橋 明大 明文 山下
居るさ□だ 都立 立教
(七)
・一〇一頁上段一一行
肴がそ□なに 「ん」。校合本のほとんどで消えかかっている。
(八)
・一三九頁下段八行
がある□是は 「。」
(九)(底本欠損のため、この章の目次には国会本、一頁は早大本を使用)
・七頁上段一行
さうし□ふくれた 校合本すべて欠字。初版では「て」。
・同頁同二行
何の□じないだか 校合本のすべてで判読不可。初版では「ま」。
・一六頁下段一六行
どうか」□主人は 初版も全角一字分アキ。
(十)
・二五頁下段三行
言茲に 共立 慶応 早大 都立 東女 日芸 一橋 山下
言□に 国会 明大 明文 立教
・二九頁下段八行
一寸横を 共立 慶応 国会 早大 都立 東女 日芸 一橋 明大 山下 立教
一寸□を 明文
・三一頁上段二行(この頁には早大本を使用)
茫やりして仕舞 共立 都立 早大 日芸 一橋 明大 明文
茫やりし□仕舞 慶応 国会 東女 山下 立教
・同頁上段一七行
右衛門君は 早大 都立
□衛門君は 共立 慶応 国会 東女 日芸 一橋 明大 明文 山下 立教
・同頁下段二〇行
鉢合□を 「せ」。校合本すべてで消えかかった状態。
(十一)
・一六頁上段一八行
四五丁□す。 校合本のほとんどで欠字。初版では「で」。