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監修のことば――本文と復刻についての覚書
山下浩(書誌学者)
一 近代文学の編纂においては、雑誌や新聞にはじめて発表された初出誌の本文(テキスト)かその後に刊行された初刊本(初版本)の本文かのどちらかを底本にする場合が多い。新しい井伏鱒二全集においては「初収録単行本」すなわち初刊本が底本にされたが、その根拠として編者らは、井伏においては初出はまだ「試作」の段階にあり、その後作者によって手直しされた「初収録単行本」に至り「一応の完成品」になったと述べている。
では漱石の場合はどうであろうか。現在ある出版社が漱石小説の注釈全集を刊行中で、その本文は初刊本をベースにしているようである。しかしたとえば『坊っちやん』の初出誌『ホトゝギス』の本文と初版『鶉籠(うずらかご)』に収録の本文とを比べてみてほしい。だれでも『鶉籠』の誤植の多さにはおどろくであろう。と同時にこの本文は初出誌の単なるリプリント(Derivative Reprint)に過ぎないと容易に思えるはずである。事実漱石小説の初刊本には、『三四郎』における数行の手直しを除くと作者自身の直接的な手直しは皆無であり、本文批評上も独自な本文(Substantive Text)とはいえないのである。
といっても漱石初刊本に価値がないわけではない。漱石(及び出版社)は、その刊行に際し本文の見直しよりもむしろ造本の視覚的・感覚的な側面、すなわち活字のデザインや組み方、装丁や挿絵に対して力を入れた。これによって本文は、初刊本の「物理的」形態(Physical Object or Sign)と一体となって、新たな、独自な「意味」を帯びてくるからである。但しこのような本文は出版物の形態のままで読むべきで、それだけを全体から抽出・引用したり常用漢字化してしまっては独自色をなくしてしまう。上の注釈全集のように、「テクストをそれが生み出された時代に置いてみること…作者ではなく読者に焦点化したもの」と謳うのであればなおさらであろう。
二 版(雑誌なら号)が同じなら中身(本文)も同じだと素朴に考える人がいまだに存在するようだ。しかしさまざまな物理的過程を経て何千部も刷られる印刷物であれば、本当に同じかどうかは調べてみなければわからない。
本文の編纂も文献の復刻も、最初に行う作業は同じである。すなわち、編纂・復刻の底本となる同一版(号)をできるだけ多く集め、これらを校合し、同じように見える本文中にも異同(Press Variants) が存在しないかどうかいちいち確かめる。英米においてはこのようにして得られる「理想本」(Ideal Copy)、すなわち出版社(者)が公にしたいと望んだ出版物の完成形態、を本文校訂の出発点としている。
今回の復刻全集では、英米の一流出版物ほどではないが、各作品の掲載誌を平均十部調査し、異同の発見につとめ、訂正済み (Corrected State) のページを復刻するようにした。つまり A Copy ではなく The Copies の復刻である。十部といっても発行部数全体からすれば微々たる数であり、校合にも完璧は期し難いが、しかしこの作業の結果、新漱石全集の校異表で「一字欠」と記録される箇所の過半数に印字の存在を確認できた。左に『薤露行』その他からの例を示し、派生的問題にも言及したい。