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監修のことば――なぜ今『漱石新聞小説復刻全集』なのか         山下 浩
 
「原稿本意」とか「原稿主義」という言い方がある。そして最近、自筆原稿が現存するかぎりこれを底本にして、「漱石が書いたままの形」を読者に提供すると謳う漱石全集が出現した。
 たしかに漱石ほどの作家であれば、その独特な書き癖や用字に触れてみたいと願う愛読者が少なくないが、しかし自筆原稿の本文(テキスト)が即読者に提供される本文だと勘違いしてはならない。「漱石が書いたままの形」と「漱石が読者に提供する本文」とは明確に区別されねばならないからである。
 そもそも原稿とは、印刷のための「資料・スケルトン」であって、読者に提供される本文は印刷所でこれに様々な肉が付加されてはじめて出来上がるのである。早い話、漱石の原稿にはパラルビしか付いていないが、――新漱石全集はこのルビを特別扱いしたパラルビ付き本文を定めている――しかし印刷される新聞では総ルビになると決まっていて、「新聞小説家」漱石は当然ながらそれを前提に執筆していたはずである。実際問題として、原稿のルビの大半は、別に読み方が難しいわけでも特別な読み方をさせるわけでもなく、執筆リズムに余裕さえあれば他のどこにでも付け得た類のものだと考えて差し支えない。したがってこの種のルビをことさらに強調するのは漱石の執筆意図を歪めてしまうのである。明治作家の原稿には、明治という時代や執筆・出版形態の「歴史的コード」が含まれているということであって、それを無視した単純な「平成流」活字化は許されないであろう。
 新聞も印刷物である以上多少の誤植は避けられないが、「原稿本意」「原稿主義」とは、自筆原稿を即底本にするというよりも、むしろそれに拠って出版物の誤植を厳密に正すことだと考えてほしかった。新漱石全集は、このあたりを理解しないまま本文を定めてしまったのであるが、その結果、例えば、同じ作品内においてすら、パラルビの自筆原稿本文とこれとは次元の異なる総ルビ付き新聞本文とが混在するといった、異様な本文を提供する羽目になっている。
 漱石愛読者間にこのような全集本文が普及するのは由々しきことであり、それゆえ当復刻全集は、この本文に代わるべく、当時の「東京版朝日新聞の読者に提供された本文」という単純明快なコンセプトの本文を提供することにした。はじめて活字化され、当時の読者にはじめて読まれた本文として、その歴史的意義ははかりしれないからである。これ以外に初版本類の本文も存在するが、その大部分は新聞からのリプリントである。出版形態にできるだけそって復刻された当全集が、書架に飾り置かれる資料集としてではなく、日常的に読まれ引用にも供されるリーディング・テキストとして、多くの方々に活用されることを望みたいと思う。
 なお、東京版と大阪版は同じ日に掲載されることが多かったが、本文その他同一というわけではない。両者の異同(バリアント)がどのような印刷過程によって生じたかについては、今後の詳細な研究を待たねばならないが、多くの場合まず東京版が自筆原稿から組まれ、そのゲラ刷りの類をもとに大阪版が組まれたように思われる。逆のケースもある。本復刻全集の本文は東京版に統一されるが、参考までに大阪版の主な異同や挿絵類を示し、大阪版にしか掲載されなかったいくつかの小品については、大阪版に拠ってこれを掲載し、その点を明記するようにした。