鎌倉幸光氏とは――漱石コレクターにして決定版の編纂を陰からささえた最大の功労者
「編集日記」全体で鎌倉氏の名前は130回ほど出るが、むろんこんな人は他にいない。それほど決定版編輯部と密に接していたわけであるが、氏なしには決定版の編纂はかくもスムーズに進行しなかったであろうし、資料的にも格段に貧弱なものになっていたであろう。鎌倉氏は、手持ちの資料をおしげもなく岩波へ貸し出すだけではなく、決定版のためには、私費で新資料を買い求めたり、新資料所有者の発掘に努めたりもした。当時はまだ図書館や文学館の設備が今ほど充実しておらず、決定版のような大規模な編纂には、鎌倉氏のような個人篤志家の存在が不可欠であったようだ。(以下の 11.10.29. の私の注も参照。)
といっても、今日、この方の名前を知っている人はほとんどいないでしょう。ウエッブなど検索しても、この「編集日記」や決定版の月報に載っている以上の情報はなかなか得られない。
「編集日記」や「名簿」から、お住まいが横浜〈細かい住所は略す〉であったことは判明済。お勤め先が 「丸見ヤ」 であった可能性は、日記の 10.10.3. の記述に見える。
○ 鎌倉さんからあまり電話がかかつて來ないので
三時頃丸見ヤへ電話をかける。もつて來てゐるとの事
小林さんに行つてもらつて別記新聞を拝借し來る。
「編集日記」に鎌倉氏の名前が初めて登場するのは、
長田幹雄の 10.9.21. の仙台出張中と歸京後、においてである。
10.9.21. 於仙台 No 4
⑫ 〈長田〉鎌倉氏の事、話して、
小宮: 色々材料をかりてくれ。
10.9.22. (日)
〈長田〉:
仙台から着いて一と休みして
横浜の鎌倉さんへゆく。
大きい邸宅。沢山の材料に包
まれ乍ら同好の士とゆつくり
しらべてゆくのは愉快だつた。
雨もよかつた。流石に疲れた。
旅行と夜行、蝦のやうになつて二晩。
蟹のやうに坐つて丸二日。それで
つかれたのです。
それから数日後の日記、決定版 配本開始の日に、次のように書かれている。
10.10.25.
○ 配本開始
○ 一つの控 思想 漱石號 編輯日記。
◇ 「漱石研究參考文献」は鎌倉幸光氏が甞て「浪
漫古典」夏目漱石研究特輯(昭和九年九月號)に載せられ
た「漱石文献目録稿」に拠りながら 漱石全集刊行會編
集部で適宜編纂したもので、漱石研究者にとつて
裨益するところ多大であると信じる。
○ 長田さん、森〈いま〉さん、両人で鎌倉氏を訪る。
思想 漱石研究文献目録の資料を借りるため。
〈注: 思想 1935.11. 月号 別冊 正確な題は、「漱石研究參考文献」〉
この参考文献の後記には、つぎのようにある。
△本研究參考文献はその素材の大半を、鎌倉幸光氏の「漱石文献目録稿」『浪
漫古典』昭和九年九月號所載 に負うた。同氏に深く感謝する。
△同目録が、あらゆる漱石文献の蒐集であるに對し、此はその「研究、追憶」
の項に當るもののみを扱ひ、又同「研究、追憶」が、年代順排列であるに對
し、此は出來るだけ内容別排列に從つた。
△同目録以後の文献及び未済録の文献は、可能な限り調査補充したが未だ數多
の遺漏ある事を虞れる。大方の御示教に俟つ他はない。
昭和十年十月
岩波書店編輯部
長田らが使った鎌倉氏のその「目録稿」〈抜刷〉が手許にある。長田の筆跡だと思はれるが、目録稿の目次が、「参考文献」用にびっしりと修正されている。42ページ、700点近い鎌倉氏の目録稿の文献の多くに、チェックやクリック、○や△の印が付いている。
その鎌倉氏の 「漱石研究參考文献」 には、「編者より」 として、次のような印象的な文が書かれている。
一、私は夏目漱石を敬慕してゐます。いつからともなく蒐めて置いた漱石に關する文獻を
列記して見たのが此目録です。去年の冬一誠堂の玉屑へ金澤君が載せたものを多少補正
したものです。
二、或人は私に 「漱石といふ名さへ有れば何でもいゝのですね」 と言いました。正に其
通りで此言葉は私の急所を見事に貫いてゐます。この 「文獻」 は従つて極廣い意味
に解して頂きます。書誌學的價値は私には別の問題ですから。
三、分類は臺北帝大の瀧田氏編 「漱石文献展觀目録」 の形式を大體拝借しました。
「研究追憶」 の部分は年月順に排列したかつたのですが、これは次の機會に譲ります。
四、斎藤昌三、瀧田貞治、衣笠静夫の三氏には一方ならぬお世話になりました。厚く御礼
を申上げます。私は今後もこの道楽には出來るだけ徹底したいと思ひます。世の漱石
研究家の御示教と御鞭撻を、待ちます。
昭和九年五月十三日
鎌倉幸光
鎌倉幸光氏は、なぜかくまでもして熱狂的な漱石ファンになったのであろうか。
決定版における鎌倉氏の功績を知る上でも、「編集日記」が鎌倉氏に言及した主要な部分を以下に抜き出しておきたい。
10.10.14. 〈私の注を参照〉
④ 坑夫の事
紙型版の價値
小宮: 恐らく大朝(注: 大阪朝日新聞のこと)で社員に分かつたものらしい。
大朝東朝の差。
小宮:(補足注: 大阪へは東京の)ゲラをまわすのが原則であつた。
脱落一行の事。
(小宮: 入れる。)
すべて東朝を原則として一応紙型版は見る。ルビとか送
り假名とか一々は紙型版による事をしない。
尚はたして紙型版が大朝のものなりやたしかめる事。
(注: なお、ここにある「紙型版」については、この全集月報第一號、の最後のページ「校正室より」に詳しく説明されている。同15頁に冩眞掲載。漱石資料の所蔵家としてその名前がひんぱんに登場する、鎌倉幸光氏が、大阪版紙面を元に作製したとされるもの。)
10.12.17.
○ 鎌倉氏より電話あり。〈注: 以下の●は鎌倉幸光氏の電話の内容〉
● 高田新聞十二月十一二日に 森成麟藏氏の談話(多分ラジオ放送)
中に四五年六月中旬 長野縣で英雄崇拝論とかを
講演したとあつたよし。森成氏に照会してくれと申されたが
一應高田新聞を見る爲に、宮沢さん〈注:店員 宮沢勝二〉に周旋方依頼す。
10.12.23.
○ 新資料 文學講義を 斉藤昌三氏が発見 鎌倉氏
を通じて貸与されるよし。その時 三四郎 の異本も貸して
下さるよし。鎌倉氏からも電話あり。又電話がかゝつて
來る筈。こちらからは、小宮先生から借りた、瀧田氏の漱石書簡冩し
を鎌倉氏に届け。引合はせて頂く事。
10.12.27.
○ 鎌倉氏より 三四郎 異本 の冩眞送つて
來る。電話あり。玄誠堂の新資料を
全集の爲に サカ立チ して買はうかと 思ふ と。
11.1.15.
一、鎌倉氏 来店。寺田先生の俳句を拾ふために 春夏
秋冬 を 四冊持参、貸与さる。
思想 漱石號 の抜刷をさしあげる。
一、鎌倉氏、自由購読 一、二、三、四を探し出して來て、講師夏目漱石とあるを見て、小宮先生にきいてみてくれとの事。昨日小宮先生にきいたが何もないと思ふ、念の爲に野上にきけといはれ、今日野上先生に電話で伺ふ。(漱石は)暇があつたら話をするといふ事であつたが遂にその機会がなくて、漱石氏のは何もなかつたよし。
11.1.21.
○ 鎌倉氏より電話あり、別冊講演の倫敦のアミユー
ジメント掲載の 明治學報(明治大學發行)
八六號(明治三八・四) 八七號(明治三八・五)が書物
展望社にあるから借りてあげますと、お願ひする。
11.3.4.
○ 鎌倉氏から電話がある。
森田・雷鳥問題について漱石の談話がある。
いかゞ? と。
11.3.11.
○ 鎌倉氏から らいてう問題についての漱石の談話が掲
載された新聞をかりる。
11.3.16.
○ 鎌倉氏 来訪
坊つちやん 單行本三冊、 坊つちやん團子
の包紙を拝借。
月報原稿依頼。
11.3.17.
○ 鎌倉氏から拝借した スクラツプブツク 六冊を、返却。
坊つちやん劇についての執筆を始めた爲、資料
として御入用の爲と。
11.3.20.
○ 鎌倉氏来店。長田さんと猫のロケーションを見に行か
る。PCL也。
11.3.26.
○ 鎌倉氏から 「猫」の玩具 十一点をかりて來る。
11.4.11.
○ 小宮先生が全集の仕事をしてゐる人達に鎌倉氏を入れて
七人を御招待して下さる。末まつ。 〈注: 土曜日〉
11.5.7.
○ PCL 映画 「吾輩は猫である」 を 鎌倉氏 及び
漱石編輯部一同でみる。(日本劇場)
11.5.27.
○ 鎌倉氏の左の二品返却。飯山さん 持参する。
一、漱石成績表
一、森田事件掲載 東京朝日新聞。
11.5.29.
○ 鎌倉氏から電話。
四十一年十月の 新潮 に
何故に小説を書くか の回答がある 筈。
実見せよ と。
〈注: 店員は、さっそくこれを調べて、メモ用紙を添付してある。この新潮「特集」、(回答)アリ とある。〉
11.5.30.
○ 鎌倉氏から 電話がある。
道草の切抜を 衣笠さんが買つて置いて
下さつた と。
代金 二円 のよし。
明後日 二円 を持参して鎌倉氏まで頂きに
行く旨返事する。
11.6.6.
○ 鎌倉氏に 朝日小觀によつて 鳥居素川の洋行年
月日を調べて頂くやう依頼。
月曜に御返事下るよし。
11.6.8.
○ 鎌倉氏から 左の三冊借用
一、大阪朝日新聞五十年の回顧
一、草枕 詳釋
一、新記 草枕
これによつて鳥居氏洋行は四十四年四月と判明。
11.6.20.
○ 明治百俳家短冊集は鎌倉さんが買ひ上げ。
当編輯部に預かり。
11.6.29.
○ 鎌倉氏から電話。知人が大朝の切抜を買つたら
三山の追悼文を漱石が書いてゐると知らせて
來たが御存じか と。
調べたところ 小品の中に 三山居士といふ一文あり。
これではないか と返事をして置く。
11.7.24.
○ 門・彼岸過迄 の表紙撮影を大塚に頼む。
門・彼岸過迄 初版本(いづれも鎌倉氏のもの)
を渡す。
11.7.30.
○ 鎌倉氏より 月報原稿 竝びに 成績表 來る。
〈注: 漱石の成績表は月報第十號 掲載〉
11.8.24.
○ 本御座の猫の番付を鎌倉氏から拝借。
〈注:月報12号の4頁に、三崎座上演「猫」番附 の冩眞が掲載。「借用品控」に、本日付記録があった。11.9.28. 参照。〉
11.8.31.
○ 鎌倉氏来訪。
文壇名家書簡集 を持参さる。拝借す。
書簡新資料 (大正四年)九月二十五日 徳田
秋江宛書簡 掲載 (一寸御約束が致しにくいの
ですが)
タイプ原稿にする件を依頼す。
(後記に實物なしとあり。原稿編入スミ 二・一二・七・)
11.9.1. (火)
〈注: 上欄に朱で、「関東大震災 記念日」とある。〉
○ 鎌倉氏 来店
カバー付の文學評論 を拝借する。
11.9.9.
○ 書簡新資料 鎌倉氏 切抜より発見。
(黒木氏宛 三九年? 二通) タイプスミ
編入スミ
11.9.24.
○ 鎌倉氏 来店
一、瀧田氏から提供された書簡新資料
の、封筒、消印 等 もう一度 瀧田氏に
きいて頂く可く依頼。
一、中村星湖氏宛書簡うつしを鎌倉氏
にあづける。新聞撮影と引合はせて
頂く爲なり。
11.9.28.
○ 大塚巧藝社に 文學評論 と 三崎座
番附 を渡す。(都合キャビネ四枚うつす
事)
〈注: 月報12号の4頁に、三崎座上演「猫」番附 の冩眞を掲載。これも、鎌倉幸光氏の所有である。〉
11.10.15.
○ 鎌倉〈幸光〉氏から 熊本峠の茶屋にある書簡新資
料 冩眞 送つて來る(山梨日々 に掲載のもの)
但し 封筒は二通あるも、中身は同じものを
二枚送つて來る。取りかへ方 鎌倉氏を通じて
依頼。
右冩眞代 六円也、送る。
(熊本市 〈以下住所略〉
峠の茶屋 松本改三 宛)
〈注: 上の六円分の郵便物受領證の他に 一金六圓也 の小為替金受領証書 を貼附〉
11.10.27.
○ 鎌倉氏来店。
田村豊久氏に 漱石の書簡あるかもしれず
聞いて見よ と。承諾。
11.10.29.
○ 鎌倉氏 から 別記借用品控 記入の
ものを 文學の爲に拝借。
〈注: 鎌倉幸光氏については、別稿で改めて書く予定であるが、氏なくして、決定版全集の篇纂はない、といっていいほどに、岩波書店は、氏の所蔵品の貸与並びに新資料探索に多くを負っている。 「借用品控」には、千点を超える資料が記入されているが、その過半が、鎌倉氏からの借用といってもいいほどである。本日の借用分は、「鎌倉氏より 文學のために」〉として、26点ほどが記入されている。もちろん、岩波店員らの事務処理はしっかりしていて、この26点は、12.10.15. に返却された、と朱書きされている。
11.11.9.
○ 鎌倉氏の話により 関村豊久氏の遺族を
訪る。
豊久氏の 妹らしき人ある。漱石の書簡は一通
もなし。小泉八雲氏のものはあるが貸して
ある と。
11.12.23. 前にも触れたが、岩波決定版が鎌倉幸光氏に頼った様は、こんなところにも出ている。
○ 鎌倉氏に 右の本 拝借方 速達にて依頼。
「行人」 初版本 美本があるなら。
11.10.29も鎌倉幸光氏に言及。
11.1.23.
○ 「三百六十五 格言」 … 漱石句アリ … 一冊 鎌倉氏より拝借す。
… 雷の圖にのりかけて落ちにけり … 新資料?
〈注: 12.1.28. 参照。ここでも 「のりかけて」 のまま。その後、 昭和30年、
雷の圖にのりすぎて落ちにけり として収録〉
12.2.4. (木)
○ 鎌倉氏より来信。 「讀賣新聞」 の漱石朝日入社前 一、二年
の項を調べる樣に と。
12.2.16. (火)
○ 肖像冩眞 焼付 A B 各五十枚、卸部へ。
刊行會用 トシテ 各 十枚、内 各一枚 ヲ 鎌倉氏ニ送ル。