配本開始まで 連載第1回
漱石20回忌となる昭和10年に出た決定版全集(全19巻)については、矢口進也さんがその『漱石全集物語』(1985)第4章においてとくに力を入れて書いておられるので、ここでは全集の構成と配本順(矢口さんは省略)を明示するだけにとどめ、本論に入りたい。
全19巻と配本順:
4 第1巻『吾輩は猫である』
6 第2巻『坊ちやん』 外7篇
13 第3巻『草枕』『二百十日』『野分け』
1 第4巻『虞美人艸』『坑夫』 (第1回配本 昭和10年10月20日)
但し、以下に示すように、克明に記録された「日記」から、実際の配本開始は、10.10.25. である。
8 第5巻『三四郎』『それから』
10 第6巻『門』『彼岸過迄』
15 第7巻『行人』
2 第8巻『心』『道草』
17 第9巻『明暗』
3 第10巻『小品』
7 第11巻『文學論』
12 第12巻『文學評論』
5 第13巻『評論』『雜篇』
11 第14巻『詩歌俳句』及び『初期の文章』 附 印譜
9 第15巻『日記』及び『断片』
14 第16巻『書簡集』
16 第17巻『續書簡集』
18 第18巻『別冊』 (第18回配本 昭和12年4月10日)
19 第19巻『總索引』 (最終回配本 昭和12年10月10日)
矢口さんが、「格調の高いなかなかの名文」として引用されている『豫約募集 内容見本』中の巻頭文「漱石全集新版刊行に際して(昭和10年10月)」は、これまでの漱石全集の内容見本にあった岩波茂雄の文ではない。当時京城帝国大学教授であった安倍能成の文である。原稿を航空便(9月16日着)で送ってきたことが、以下に示す「日記」に記されている(ただし、安倍氏、9月7日に岩波書店を訪れている)。実は、岩波は、この年、単身で7ヶ月余りヨーロッパ・アメリカ旅行に出かけている。4月末に東京を離れ、門司出航5月4日、帰国の横浜入港は12月13日であった(小林勇『惜櫟荘主人』)。
全集に関わる編者は、大きく分けて、漱石の弟子である学者と岩波の店員であるが、主な学者と岩波茂雄、それに次女小百合と昭和7年に結婚した元店員・後専務の小林勇についても、その生年と没年がわかっているので、読者の参考のために示しておきたい。(店員については、別ブログ:配本開始以降の長い旅路――連載を前に)
寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)
岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年(明治14年)8月27日 - 1946年(昭和21年)4月25日)
安倍 能成(あべ よししげ、1883年(明治16年)12月23日 - 1966年(昭和41年)6月7日))
森田 草平(もりた そうへい、1881年(明治14年)3月19日 - 1949年(昭和24年)12月14日)
小宮 豊隆(こみや とよたか 、1884年(明治17年)3月7日 - 1966年(昭和41年)5月3日)
松岡 譲(まつおか ゆずる、 1891年(明治24年)9月28日 - 1969(昭和44年)年7月22日)
小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27日 - 1981年(昭和56年)11月20日)
岩波側の全集編集の中心は、これまでの和田勇ではなく、長田幹雄である。その長田ら数人が交互につけた「日記」(分厚い大学ノート(160 x 200 ミリ)5冊は、昭和10年6月17日に始まり昭和12年5月11日(火)まで)。昭和12年5月とは、毎月1冊配本で本来なら完結予定の月であった。しかし最終回の『總索引』のみが半年遅れて10月となった。配本順は、上に示した通りイレギュラーであるが、18回まで月1冊配本できたのは見事である。
他に、同サイズのノート、7冊が残っている。これがまた克明な記録。表に、
「新版漱石全集校正記録 未現過爲」(右下に「西」西島九州男の印がある)、
「編輯雑録 昭和十年九月」、
「増訂資料控 昭和十年九月」、
「備品・書籍目録 昭和十年九月」、
「漱石全集月報原稿料」、
「借用品控 昭和十年九月」、
「名簿 新版漱石全集」
である。この7冊が作成された経緯については、日記の10.9.17.を参照されたい。今回のブログでは、上の日記の記述を克明に追うことになるが、店員たちの筆跡がなかなか個性的で、読みにくい人物名や事項を判読する上でも、上7冊のノート、特に名簿は役に立つ。この7冊の中身については、改めて、独立した項目を立てて説明したい。
日記の始まりの日は、朱のスタンプで「昭和拾年六月拾七日」と押されている。冒頭、全集をつくるそもそもの話から記録される。筆跡は、全集のメインパーソン、長田幹雄のもの。5冊のうちでは、1冊目が内容的に圧巻である。(1冊目は、10/6/17 - 10/10/22、配本開始日である10月25日の3日前までを記録。ブログでは8回目まで。)
昭和拾年六月拾七日
テニスファン社に松岡先生を訪ね第一回打合。
以下松岡さんの言葉通りではないが大體その意
向を原案として記録して置く。參考として
下の空欄に堤さんの対案を書いて頂く。(筆者注: この部分は空白のまま)
時期 昭和十年十一月一杯 ―― 十二月初め
着手 早速、プランを練り、立案次第成るべく早くかかる。
[こちらとしては先づ小宮先生の諒諾を得る事から着
手して頂ければ好都合と思ふ旨申上ぐ。後記 諒諾(注: □で囲む)の項参照]
製作 第一回を十月中に作りたし。
定價 一円五十銭
冊数 いく冊になるか計算して見てほしい。
體裁 芥川普及版位のものを作りたい。
判型 四六判 九ポイント ルビつき
普及性 ポピュラーな全集を目標としたい。
挿絵 帝室技藝員、美術院審査員のいゝ級に書かせる。
たとへば百穂の草枕のやうなのをいれる。木版ではやり切れ
ないだろうな。
その繪はすつかり纏まつてから展覧会でもやつて、そこで賣れ
ば必ずどこかよい所へ収まるよ。回収もつくと思ふし、相當
に謝礼を出しても丸々背負ひこむことはない。相當に謝禮出せ
るといふ事になると可成書かせる事(を)出來るよ。美術家を一度
集めて會をやつてもいゝ位に考へてゐる。展覧会は工合わるければ
三越なり高島やなりを動かして向ふにやらせればよい。
どの位入れ得るか、ソロバンをはじいてみての事。大觀等も先生と
縁故があるから畫くであらう。
解説 (A)小宮さんの「明暗」の解説のやうなものをお弟子さん
たちに分担してやつて貰う。丁度二十年だしいゝ機会だから
今迄いろいろ喧嘩してゐた人たちも仲よく一致して一篇づゝ
でもやつて呉れるといゝ。あんな喧嘩[どの喧嘩の事か
わからない]なんか今になれば一場の夢だよ。自分や夏目の
母などが間に入つてもいゝ。
(B)英文は譯するのも困るだらうが漢詩などは原文と同時
に讀み下しをつけてやつて出來るものにしたい。
(C)文學論、文學評論等にも解説をつけたい。
謝礼 前項、挿絵と解説の謝礼もソロバンをやつて見な
いといけない。
装幀 軽快なものに変へたい
ルビ 論文にもルビをつけて普及本位を覗ひたい。
増補 書簡の若干と、俳句がその後多数発見されてゐる。
挿入写真 挿絵と同じ目的をもつた写真挿入も考へてみる。
写真帖 別に写真帖も考へてみてよい。全集に加へてしまふか否か。
写真は、前項の分とも、自分から話して第一書房の分は
貰へる。
索引 一つ総索引をつけたらいゝと思ふがどの程につけるかね。
諒解 小宮さんの諒解は絶體必要だから自分が仙台に行くよ。そ
れに漱石傳(次項)を是非これを貰ひたいと思ふ。他の人の諒解
はいゝ。
漱石傳 小宮さんの漱石傳を是非この際書き上げて頂いてそ
れを此の全集に頂きたい。老人たちが多数生きて
ゐる間に纏めて頂きたい。たんねんな方だから気の向
くようにやつてをられたでは百年あつても足りない、又小宮さん
としても一つ全集につくべき傳として漱石傳の欽定版
を作つておくが最もよい事と思はれる。
宣伝 頻りに此の春から映画を躍らせてゐる。牧野、PCL、
日活、松竹。丁度秋封切りになるのが沢山ある。今も
松竹が来て花柳章太郎が坊ちやんをやりたいといつて
来て、許してやつた。たとへ水谷八重子が下品な
虞美人艸をやつても誰も原作が悪いといふ人は
ゐない。漱石が怒るぞといふ人はあつても原作の聲
価は定ってゐるのだから氣運を作るだけでもよい。
眞筆版漱石全集
漱石自筆の原稿の残つてゐる分丈(小説類)
を複製して豪華な全集を出したい。これは、
たのしみたのしみやれるからいゝよ。然も特刷、原稿
用紙の目と文字と二色刷り位にして、菊判
猫、一部分。虞美人艸、草枕、坊ちゃん、等
利益 利益、が若し上がるやうだつたら書斎の維持費
書斎 にあてたい。書斎は自分が貰つて管理したい。
續夏目漱石 書かれてある分はそれからの3回分位。あとこれから
書いて秋頃だね、売れてよかつたね。
春陽堂問題 破産の結果債権者に紙型などがうつり、儉印して
やれないやうな事態になつたらどのやうなトラブル
があるか。大倉もあゝなつたのだし、統一を図つ
たらどうか。適当なコストなら買ひ取る塲合、
店で引受られるね。
昭和拾年六月拾九日
正午松岡氏来訪。
先日の話をくりかえしたほか、すつきりした案でゆきたい意見
もある旨、披瀝しておく。一と通り話したあと堤さんにも逢
つて頂く。
○今日頃夏目奥様(はゝ)に逢ふから、大體 秋やりたい事を話し
ておきたい。
○小宮さんに先ず第一に逢つて、やりたい といふ話 どういふ風
にやらうかといふ事から白紙で話してプランを立てやう。
○春陽堂問題。とにかく和田氏(注: 和田利彦)に直接きいて見よう。先ず手
紙を出して返事をとらう。(10.10.17. 堤さんから のメモを参照 )
注:
以上の2回が6月中につけられた日記である。翌月になって、7月9日付、マツオカから小宮宛て、面会に関する電報文がある。
ケフツガウツカヌアスイウコクオマチタノムマツオカ(小宮先生あて)
小宮先生に通知ずみ 但 明夕は寺田先生と
約束があると。
このあと、十年七月十九日付「全進行プラン」のメモがある。
全進行プラン
9/18 ヨヤクトドケ
9/20 内容見本
9/23 本 出来
9/28 發表
10/31 〆切
十年七月三十日、長田は小宮からの電報「サシツカヘナシ テガ ミミタカ」(小宮さん)を受けて、仙台へ向かい、翌31日仙台到着。
十年七月三十一日
(注: 長田は小宮に会い、細かい打合せを行って、決定版の概要が固まる。)
仙台着
①巻別について
(案)第二巻案 『坊ちやん・漾虚集 八篇』と
第三巻案 『野分け・硝子戸の中 他十五篇』はかへたい。小説の
次に小品一巻を別に立てる。小品を独立させ
ると前にもつて來る事はよい。
「野分」から「虞美人草」の間に朝日入社
といふ件があるからそれを一所にしたくない。
從つて「野分け」は他の短篇と共に前におき
一〇〇〇頁以上になるとすれば二冊にするも
止むを得ず。結局として
『坊ちやん 他七篇』を第二巻に
『草枕・二百十日・野分』を第三巻にする。
『小品』 を第十巻にする。一冊ふえる。
(案)別巻 『漱石傳・總索引』は別に分けて 「總索引」一巻
漱石傳は豫約外 岩波書店刊行にしたし。
②解説について
一、七、九、十、十一、十二、十三、十五、十六、十七、十八、各巻 二〇頁
二、三、四、五、六、八、十四、 各巻 三〇頁
③校正について
原稿のあるものは原稿による、原稿通り
ないものは、初載誌紙 切ぬき、
同あとよりの手入はそれによつて直し、
次に單行、初版といふ順序。
④上京について
八日(阿倍さんの都合)か十五日(獨逸人の都合)がよい。
⑤見本組について、大体可。
書簡集の発信記録は 二行とらずに 一行でよし。
(さうすると 全体で一〇〇頁ほど節約される。)
(次回、連載第2回の内容は、上の打合せをうけて開かれた「星ケ岡茶寮」におけるお歴々方の編集会議の模樣である。)